【日刊】日本の城
名称:赤穂城(あこうじょう)
別称:加里屋城、大鷹城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:兵庫県赤穂市加里屋1278
日本100名城:第60番
  - スタンプ:本丸櫓門下

赤穂城(あこうじょう)は、播磨国(今の兵庫県赤穂市)にあった、江戸期には赤穂藩の藩庁などにも機能した日本の城である。1466年(文正元年)-1483年(文明15年)頃、岡光広が加里屋城を築城。この地での最初の築城となる。

1600年(慶長5年)、姫路藩主・池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり赤穂城の前身である大鷹城を赤穂郡加里屋に築城。1613年(慶長18年)、赤穂は輝政の次男で備前岡山藩主・忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される。

1615年(元和元年)、忠継の弟・政綱が3万5000石を与えられ赤穂藩が立藩。御殿が造営される。1631年(寛永8年)、政綱が嗣子なく死去し、弟の輝興が入封。更に櫓・馬屋を造営。

1645年(正保2年)、輝興、発狂により改易。城は備中松山藩主・水谷勝隆預かりとなる。同年、浅野長直が5万3000石で入封する。

1646年(正保3年)、近世城郭建設のため、近藤正純が設計図を作成。石材採掘にも取り掛かる。1648年(慶安元年)6月17日に幕府に築城計画を提出、異例の即日許可となり、築城開始。

1652年(承応元年)、赤穂藩祖浅野長直の招きで、江戸屋敷で藩士に兵学を教えていた山鹿素行が赤穂に7カ月滞在して縄張りをして二の丸周辺の造営を変更。1661年(寛文元年)完成する。

赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが今日に残っている。

1701年(元禄14年)、三代長矩、江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により浅野氏改易となる。城は播磨龍野藩主・脇坂安照預かりとなる。1702年(元禄15年)、永井直敬が3万3000石で入封。同年、赤穂浪士討ち入り。

1706年(宝永3年)、直敬転封により、森長直が2万石で入封。廃藩置県まで森氏が城主となる。

市内を流れる千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水されていた。日本三大上水道の一つに数えられている。

2006年(平成18年)から赤穂青年会議所が赤穂義士祭奉賛行事として光の天守閣を始める。赤穂義士祭が行われる12月14日までの数日間、天守台に天守風の外観になるように建設足場用の鋼管を組み、電球を配線し夜間点灯される。

日本の歴史公園100選に「赤穂城址公園」として選ばれている。
赤穂城 播磨国(兵庫県赤穂市) - サムネイル写真
【関連サイト】
国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト