【日刊】日本の城
名称:明石城(あかしじょう)
別称:喜春城、錦江城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:巽櫓・坤櫓

住所:兵庫県明石市明石公園1−27
日本100名城:第58番
  - スタンプ:明石公園サービスセンター受付窓口

明石城(あかしじょう)は、播磨国(今の兵庫県明石市)にあった、江戸期には明石藩の藩庁となった日本の城である。

元和3年(1617年)、信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に二代将軍徳川秀忠より築城命令を受ける。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。

元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。このとき天守は台石まで積まれたが、建てられなかった。

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。

本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。

本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分で、この部分の石垣、土塁、堀などの作事は徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。

苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、寛永9年(1632年)、豊前小倉藩(小倉城)に転封となった。翌寛永10年(1633年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。

しかしその松平光重も寛永16年(1639年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城したが、慶安2年(1649年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封する。

その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。文化人でもあったらしく、城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。

しかしその松平信之も、延宝7年(1679年)に大和郡山藩(大和国の郡山城)に転封となると、代わりに郡山城にいた本多政利が6万石で入城。しかし、領内を収めることができず天和2年(1682年) わずか3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。

わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となった。

各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く、二代藩主松平直常の元文4年(1739年)には大修築が行われた。最後の城主は松平直致で、明治7年(1874年) 廃城令により廃城となる。

日本の歴史公園100選に「明石公園」として選ばれている。
明石城 播磨国(兵庫県明石市) - サムネイル写真
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