【日刊】日本の城
・名称:二条城(にじょうじょう)
・別称:二条御所、旧二条離宮、元離宮二条城
・史跡:国の史跡
・国宝:二の丸御殿6棟
・重文:建造物22棟、二の丸御殿障壁画1016面
・住所:京都府京都市中京区二条城町541
・日本100名城:第53番
- スタンプ:大休憩所
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代の日本の城である。京都市街の中にある平城。二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。1994年(平成6年)、ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
史上、京都の二条城と呼ばれる城は複数ある。まず、足利尊氏から義満まで室町幕府の三代の将軍が構えた屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。平安京の左京にあり、右京にあった西院城(さいのしろ)とともに平安京の両城ともいう。
次いで、室町幕府13代将軍足利義輝の二条御所武衛陣の御構え。永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって、義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれに由来している。
さらに、室町幕府15代将軍足利義昭の二条城。義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛。本圀寺の変を受けて、信長が築城した。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方をを縄張りとした。
次に、織田信長・誠仁親王の「二条新御所」。信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。後に皇太子誠仁親王に献上した。天正10年(1582年)、本能寺の変では嫡男・信忠がここに籠城したことで知られる。
前史として最後に、羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」。天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として構築。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成までの政庁。
現在に残る二条城は徳川家によるもの。幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
慶長6年(1601年)5月、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った。
慶長7年(1602年)5月、御殿・天守の造営に着工し、翌慶長8年(1603年)3月に落成。ただし、天守は慶長11年(1606年)に完成している。
慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
慶長16年(1611年)、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き、徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したとも。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和5年(1619年)、二代将軍秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。元和6年(1620年)6月18日、和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
徳川家光が三代将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年(1624年)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡って行われ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。
この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月、秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
大正4年(1915年)、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。昭和14年(1939年)、宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
2015年4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、最初に被害が発覚した場所となった。
【関連サイト】
・二条城 - 京都市
・名称:二条城(にじょうじょう)
・別称:二条御所、旧二条離宮、元離宮二条城
・史跡:国の史跡
・国宝:二の丸御殿6棟
・重文:建造物22棟、二の丸御殿障壁画1016面
・住所:京都府京都市中京区二条城町541
・日本100名城:第53番
- スタンプ:大休憩所
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代の日本の城である。京都市街の中にある平城。二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。1994年(平成6年)、ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。
史上、京都の二条城と呼ばれる城は複数ある。まず、足利尊氏から義満まで室町幕府の三代の将軍が構えた屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。平安京の左京にあり、右京にあった西院城(さいのしろ)とともに平安京の両城ともいう。
次いで、室町幕府13代将軍足利義輝の二条御所武衛陣の御構え。永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって、義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれに由来している。
さらに、室町幕府15代将軍足利義昭の二条城。義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛。本圀寺の変を受けて、信長が築城した。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方をを縄張りとした。
次に、織田信長・誠仁親王の「二条新御所」。信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。後に皇太子誠仁親王に献上した。天正10年(1582年)、本能寺の変では嫡男・信忠がここに籠城したことで知られる。
前史として最後に、羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」。天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として構築。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成までの政庁。
現在に残る二条城は徳川家によるもの。幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
慶長6年(1601年)5月、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った。
慶長7年(1602年)5月、御殿・天守の造営に着工し、翌慶長8年(1603年)3月に落成。ただし、天守は慶長11年(1606年)に完成している。
慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。
慶長16年(1611年)、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き、徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したとも。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和5年(1619年)、二代将軍秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。元和6年(1620年)6月18日、和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
徳川家光が三代将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年(1624年)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡って行われ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。
この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月、秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
大正4年(1915年)、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。昭和14年(1939年)、宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
2015年4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、最初に被害が発覚した場所となった。
【関連サイト】
・二条城 - 京都市
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