創建1300年の「野球神社」、七代目市川団十郎ゆかりの境内社も
[住所]埼玉県東松山市箭弓町
[電話]0493-22-2104
箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)は、埼玉県東松山市にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。日本三大稲荷、日本五大稲荷の一社とされることもある。
町名は当社にちなむもの。商売、勝負の神様として特に有名。和銅5年(712年)の創建と伝えられる。
当初は小さな祠だったようだが、平安時代の長元元年(1028年)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。
これを受けて源氏の棟梁源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。
しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。長元3年(1030年)、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。
問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。
一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。頼信はこの神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。
付近で、類似の説話として、当社より南西約4キロにある物見山において、坂上田村麻呂が延暦10年(791年)、悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えがある。
また、当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。
江戸時代初期の元和3年(1617年)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。
すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。
これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。
江戸時代には、江戸を中心に各地に分祀が行われるほど、多くの信仰を集めた。東京都内に、江東区の上野と浅草、江東区常盤、足立区千住大川町、江戸川区南小岩に当社号を冠する小社が現存する。
明治初年(1868年)、神仏分離により福聚寺は別当から離れることになったが、福聚寺は同市内に現存する。
御祭神は保食神で、当社では宇迦之御魂神・豊受比売神としている。
本殿は、正徳5年(1715年)に地頭・島田弾正の計らいにより建造されたもの。幣殿は、文化8年(1811年)の建造と伝えられる。
拝殿は、天保6年(1835年)に領主の松平大和守が造営した。また、境内には穴宮稲荷(団十郎稲荷、単に穴宮とも)がある。
七代目市川団十郎(寛政3年(1791年)-安政6年(1859年4月25日))は、当社の熱心な崇敬者だった。
社伝によると、歌舞伎の演じ物に「葛の葉」「狐忠信」があり、狐の仕草が非常に難しいとされるが、団十郎は稲荷大神に心願し、その加護を受け、ついに江戸柳盛座で見事に演じきり、大盛況のうちに興行を終えた。
そこで、大願成就への感謝のための石祠一社を文政4年(1821年)に奉納。お穴様とも呼ばれ、穴宮神社とも。現在でも技芸向上に励む人々から信仰されている。
境内には牡丹園もある。大正12年(1923年)、東上本線坂戸町駅-武州松山駅(現在の東松山駅)間の延伸開業の際に、東武鉄道社長根津嘉一郎から奉納された。
現在では、3500平米の敷地に1300株の牡丹がある。なお、東松山市内には、3万700平米の敷地に9100株の牡丹がある東松山ぼたん園もある。
「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。
特に、同じ県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れる。野球絵馬や、野球・ソフトボールのバットの形を擬した球技守を頒布している。
崇敬者には、落語家林家正蔵並びに林家三平がいる。海老名家(林家)には代々手のひらに乗るほどの小さな「武州松山の箭弓稲荷様」が伝わっているという。
海老名家の先祖は、講談で有名な町奴、幡随院長兵衛に登場する旗本、水野成之(十郎左衛門)の配下、海老名弾正とされ、箭弓稲荷様は海老名家の守り神様。
楽屋にいる時は、楽屋に祀り、手を合わせて拝む。この手が拝む時に上がれば、その日の高座の芸はうまくいき、下がれば調子が良くない、という。
正月三が日の初詣客が20万人以上に達する、全国レベルで見ても有数の初詣客を誇る神社でもある。
【ご利益】
勝運、商売繁昌、家内・交通安全、学業成就、芸能向上など(公式HP)
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箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)は、埼玉県東松山市にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
近代社格では県社、現在は神社本庁の別表神社。日本三大稲荷、日本五大稲荷の一社とされることもある。
町名は当社にちなむもの。商売、勝負の神様として特に有名。和銅5年(712年)の創建と伝えられる。
当初は小さな祠だったようだが、平安時代の長元元年(1028年)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。
これを受けて源氏の棟梁源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。
しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。長元3年(1030年)、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。
問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。
一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。頼信はこの神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。
付近で、類似の説話として、当社より南西約4キロにある物見山において、坂上田村麻呂が延暦10年(791年)、悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えがある。
また、当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。
江戸時代初期の元和3年(1617年)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。
すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。
これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。
江戸時代には、江戸を中心に各地に分祀が行われるほど、多くの信仰を集めた。東京都内に、江東区の上野と浅草、江東区常盤、足立区千住大川町、江戸川区南小岩に当社号を冠する小社が現存する。
明治初年(1868年)、神仏分離により福聚寺は別当から離れることになったが、福聚寺は同市内に現存する。
御祭神は保食神で、当社では宇迦之御魂神・豊受比売神としている。
本殿は、正徳5年(1715年)に地頭・島田弾正の計らいにより建造されたもの。幣殿は、文化8年(1811年)の建造と伝えられる。
拝殿は、天保6年(1835年)に領主の松平大和守が造営した。また、境内には穴宮稲荷(団十郎稲荷、単に穴宮とも)がある。
七代目市川団十郎(寛政3年(1791年)-安政6年(1859年4月25日))は、当社の熱心な崇敬者だった。
社伝によると、歌舞伎の演じ物に「葛の葉」「狐忠信」があり、狐の仕草が非常に難しいとされるが、団十郎は稲荷大神に心願し、その加護を受け、ついに江戸柳盛座で見事に演じきり、大盛況のうちに興行を終えた。
そこで、大願成就への感謝のための石祠一社を文政4年(1821年)に奉納。お穴様とも呼ばれ、穴宮神社とも。現在でも技芸向上に励む人々から信仰されている。
境内には牡丹園もある。大正12年(1923年)、東上本線坂戸町駅-武州松山駅(現在の東松山駅)間の延伸開業の際に、東武鉄道社長根津嘉一郎から奉納された。
現在では、3500平米の敷地に1300株の牡丹がある。なお、東松山市内には、3万700平米の敷地に9100株の牡丹がある東松山ぼたん園もある。
「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。
特に、同じ県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れる。野球絵馬や、野球・ソフトボールのバットの形を擬した球技守を頒布している。
崇敬者には、落語家林家正蔵並びに林家三平がいる。海老名家(林家)には代々手のひらに乗るほどの小さな「武州松山の箭弓稲荷様」が伝わっているという。
海老名家の先祖は、講談で有名な町奴、幡随院長兵衛に登場する旗本、水野成之(十郎左衛門)の配下、海老名弾正とされ、箭弓稲荷様は海老名家の守り神様。
楽屋にいる時は、楽屋に祀り、手を合わせて拝む。この手が拝む時に上がれば、その日の高座の芸はうまくいき、下がれば調子が良くない、という。
正月三が日の初詣客が20万人以上に達する、全国レベルで見ても有数の初詣客を誇る神社でもある。
【ご利益】
勝運、商売繁昌、家内・交通安全、学業成就、芸能向上など(公式HP)
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