【日刊】日本の城
名称:観音寺城(かんのんじじょう)
別称:佐々木城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:滋賀県近江八幡市安土町
日本100名城:第52番
  - スタンプ:石寺楽市会館(12月中旬~3月上旬は中止)、観音正寺、桑実寺、摠見寺

観音寺城(かんのんじじょう)は、近江国(今の滋賀県近江八幡市)にあった日本の城である。日本五大山城、日本五大山岳城の一つ。築城年は応仁・文明年間(1467年-1487年)、廃城年は永禄11年(1568年)。主な築城者は六角氏頼。

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述がある。

室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。応仁の乱では三度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦いでは、細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

第二次観音寺城の戦いでは、応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固める。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

第三次観音寺城の戦いでは、東軍の細川勝元は八代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、三度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。

高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に九代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の十代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

文亀2年(1502年)、六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。その後和議を結ぶ。

永正13年(1516年)、再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。

大永5年(1525年)、六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が三度目の観音寺城を攻撃。この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退する。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ、無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になった。 観音寺城 近江国(滋賀県近江八幡市) - サムネイル写真