【日刊】日本の城
名称:松坂城(まつざかじょう)
別称:松阪城

史跡:県の史跡
国宝:-
重文:-

住所:三重県松阪市殿町
日本100名城:第48番
  - スタンプ:松阪市立歴史民俗資料館、本居宣長記念館(両館休館日は松阪市観光センター)

松坂城(まつざかじょう)は、伊勢国(今の三重県松阪市)にあった日本の城である。現在は松阪城とも。築城年は1588年(天正16年)で、廃城年は1871年(明治4年)。主な築城者は蒲生氏郷で、主な改修者は古田重勝である。

1584年(天正12年)、近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。1588年(天正16年)、氏郷は、松ヶ島が伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始。

工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。

本丸には3重5階の天守が構えられた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。

1590年(天正18年)、氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。代わって服部一忠が入城。

1595年(文禄4年)、服部一忠は豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害した。次いで古田重勝が3万4千石で入城した。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。重勝はこの年に死去し長子の重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封した。

1619年(元和5年)、古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。松坂城は当地を統括する城として城代が置かれた。城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、江戸時代前期の史料によれば、1644年(正保元年)に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。

1794年(寛政6年)には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となった。

松坂城の魅力に石垣がある。名古屋工業大学教授・内藤昌博士によると「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」とし、近世の先駆けとなる名城としてあげられる。

安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松坂城にもこの時の石垣作りが取り入れられている。石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われている。

これらの工法は「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団が、安土城で今までの日本にはなかった新しい築城方法を発案したもの。蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民をかり出し石垣をくみ上げた。

1988年(昭和63年)から2003年(平成15年)までの16年間、総事業費11億円、総面積4580平米に及ぶ「平成の松坂城石垣修復」が実施された。部分的な石垣の修復はされていたが全面的な修復は1700年以来といわれている。

この修復で二ノ丸からは蒲生氏郷の時とは違うノミ跡が発見されたり、三ノ丸の野面積みも紀州藩になってからのものなど数多い発見があった。

日本の歴史公園100選に「松阪公園」として選ばれている。
松坂城 伊勢国(三重県松阪市) - サムネイル写真
【関連サイト】
松坂城跡(国指定史跡) - 観光情報 - 松阪市観光協会