【日刊】日本の城
名称:長篠城(ながしのじょう)
別称:末広城、扇城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:愛知県新城市長篠市場22−1
日本100名城:第46番
  - スタンプ:新城市長篠城址史跡保存館窓口

長篠城(ながしのじょう)は、三河国(今の愛知県新城市)にあった日本の城である。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ、鳥居強右衛門が活躍する、長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。

築城年は永正5年(1508年)で、廃城年は天正4年(1576年)。主な築城者は菅沼元成で、主な改修者は奥平信昌である。

永正5年(1508年)、今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。

その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。

菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。

元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その途中で信玄は死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。

城主・正貞は天正元年8月(1573年)に開城退去。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。

天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が、1万5000の兵を率いて、奥平信昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。

天正4年(1576年)、前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。

1929年(昭和4年)、当時の史蹟名勝天然紀念物保存法により、城跡一帯が国の史跡に指定された。

その後、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになった。
長篠城 三河国(愛知県新城市) - サムネイル写真
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