【日刊】日本の城
・名称:名古屋城(なごやじょう)
・別称:金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
・史跡:国の特別史跡
・国宝:-
・重文:櫓3棟、門3棟
・住所:愛知県名古屋市中区本丸1−1
・日本100名城:第44番
- スタンプ:正門改札所、東門改札所
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国(今の愛知県名古屋市)にあった、江戸期には尾張藩の藩庁などにも機能した日本の城である。大坂城・熊本城とともに、日本三名城の一つ。
築城年は慶長14年(1609年)で、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は1612年(連結式層塔型5層5階地下1階、非現存)、1959年に再建(SRC造・外観復元)。主な築城者は徳川家康で、主な改修者は名古屋城再建委員会である。
16世紀前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。
信秀は一時期この城に居住し、嫡男・織田信長はこの城で生まれたといわれている。後に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。
1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的なものであった。
1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
明治維新の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。
しかし、ドイツの公使マックス・フォン・ブラントと大日本帝国陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。
太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
戦後、三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存された。
天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に復元工事が着工。2018年(平成30年)の全体公開を目指して工事が進められている。
2013年(平成25年)1月4日、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。
日本の歴史公園100選に「名城公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「熱田神宮、名古屋城、徳川園、白壁地区」として選ばれている。
2010年の名古屋開府400年祭マスコットとして誕生した「はち丸」「だなも」「エビザベス」「かなえっち」は、2011年以降「名古屋市公式マスコットキャラクター」として、名古屋市のPRを行っている。詳しくはこちら。
【関連サイト】
・名古屋城公式ウェブサイト
【関連記事】
・那古野神社 - 創建1100年、名古屋城の総鎮守・城下町の氏神、天王祭は名古屋三大祭の一つ
・山田天満宮 - 尾張藩が学問祈願所として勧請、境内社に金運の金神社と良縁の御嶽神社
・尾張戸神社 - 東谷山山頂に、志段味古墳群の上に鎮座、尾張氏の祖らを祀る古社
・名称:名古屋城(なごやじょう)
・別称:金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
・史跡:国の特別史跡
・国宝:-
・重文:櫓3棟、門3棟
・住所:愛知県名古屋市中区本丸1−1
・日本100名城:第44番
- スタンプ:正門改札所、東門改札所
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国(今の愛知県名古屋市)にあった、江戸期には尾張藩の藩庁などにも機能した日本の城である。大坂城・熊本城とともに、日本三名城の一つ。
築城年は慶長14年(1609年)で、廃城年は1871年(明治4年)。天守の築造年は1612年(連結式層塔型5層5階地下1階、非現存)、1959年に再建(SRC造・外観復元)。主な築城者は徳川家康で、主な改修者は名古屋城再建委員会である。
16世紀前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。
信秀は一時期この城に居住し、嫡男・織田信長はこの城で生まれたといわれている。後に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。
1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移るという徹底的なものであった。
1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
明治維新の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。
しかし、ドイツの公使マックス・フォン・ブラントと大日本帝国陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。
太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
戦後、三之丸を除く城跡は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存された。
天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に復元工事が着工。2018年(平成30年)の全体公開を目指して工事が進められている。
2013年(平成25年)1月4日、名古屋市は2013年度から、名古屋城の天守閣を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。
日本の歴史公園100選に「名城公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「熱田神宮、名古屋城、徳川園、白壁地区」として選ばれている。
2010年の名古屋開府400年祭マスコットとして誕生した「はち丸」「だなも」「エビザベス」「かなえっち」は、2011年以降「名古屋市公式マスコットキャラクター」として、名古屋市のPRを行っている。詳しくはこちら。
【関連サイト】
・名古屋城公式ウェブサイト
【関連記事】
・那古野神社 - 創建1100年、名古屋城の総鎮守・城下町の氏神、天王祭は名古屋三大祭の一つ
・山田天満宮 - 尾張藩が学問祈願所として勧請、境内社に金運の金神社と良縁の御嶽神社
・尾張戸神社 - 東谷山山頂に、志段味古墳群の上に鎮座、尾張氏の祖らを祀る古社
コメント