【日刊】日本の城
名称:掛川城(かけがわじょう)
別称:懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城

史跡:-
国宝:-
重文:二の丸御殿

住所:静岡県掛川市掛川1138−24
日本100名城:第42番
  - スタンプ:掛川城御殿

掛川城(かけがわじょう)は、遠江国(今の静岡県掛川市)にあった日本の城である。

室町時代中期の文明年間(1469年-1487年)に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。

ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、当主の今川氏真は本拠地たる駿府館を捨てて、朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。

このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭うが、泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。しかし、多勢に無勢もあり、和議で主君氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。

氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。

間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。

しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。

その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1000石(のち5万9000石)で入った。

一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、本丸を中心に、西に搦手、南東に大手を開き、北に天守曲輪である天守丸、その北に竹之丸、南に松尾曲輪、西に中の丸、東に二ノ丸と三ノ丸、その南を惣構えで囲んだ梯郭式の平山城であった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われている。

幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。

1994年(平成6年)4月 天守が再建された。再建された天守は木造であり、日本初の木造復元天守である。
掛川城 遠江国(静岡県掛川市) - サムネイル写真
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掛川城|静岡県掛川市

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