日本初の金の産出地、東大寺大仏の完成に寄与した式内古社
黄金山神社(宮城県遠田郡涌谷町涌谷)
[住所]宮城県遠田郡涌谷町涌谷
[電話]0229-43-2100

黄金山神社(こがねやまじんじゃ)は、宮城県遠田郡涌谷町にある神社。巨大な黄金色の鳥居がトレードマーク。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「黄金山神社(陸奥国・小田郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

主祭神は鉱山神の金山毘古神(かなやまひこのかみ)で、現在は商売繁盛の神として信仰されている。他に、天照皇大神猿田彦命が祀られ、軻遇土神月読命が配祀されている。

当地では金が発見される前から神が祀られており、小田郡(現 遠田郡)の人である日下部深淵が、産金当時の神主だった。

奈良時代中期、平城京で聖武天皇が大仏塗金のための黄金を切望していた。当時、日本国内では金は採れないとされ、全て輸入に頼っていた。

まさにその時、陸奥国守百済王敬福が管内の小田郡で産出した黄金900両を貢上した。天平21年(749年)正月4日のこと。

900両もの砂金を収集し、奈良の都まで運ぶためには1年から2年の歳月が必要で、実際に砂金が発見されたのは747年頃と考えられる。

ともかく、これによって東大寺大仏は無事完成し、小田郡は永年、陸奥国は3年間免税とされた。産金関係者に位が授けられた時、日下部深淵は外少初位下に叙された。

また、この功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。現在、百済王神社がある。

これより後、天平神護年間(767年)までに、現在の当社の場所に瓦葺の仏堂が造られた。現社号に改められ、延喜式に小座として記載された。

中世の当社の様相は不明。江戸時代に地元では初めて黄金が出たところと言い伝えられた。拝殿のみで社殿はなく、黄金山を御神体として拝んでいた。

拝殿は、奈良時代の仏堂の礎石を流用して建てられていた。江戸時代後期、1790年頃までは年々祭祀が行われていたが、その後途絶えた。

しかし、江戸時代には天平の産金地を牡鹿郡(現 石巻市)の金華山とするのが通説で、その地の金華山黄金山神社が信仰を集めた。

これに対して、江戸時代後期の国学者沖安海は、当社の古い礎石と付近に散乱する古瓦に注目。

文化7年(1810年)の『陸奥国小田郡黄金山神社考』で、沖は金の産出に由来する神社は遠田郡涌谷村の当社であると唱えた。

沖は神社が荒れているのを残念に思い、天保6年(1835年)に新たに社殿を建てた。

現在の社殿は明治42年(1909年)築。明治31年(1898年)には大槻文彦が『陸奥国遠田郡小田郡沿革考』で沖の説を発展させた。

昭和32年(1957年)、東北大学による発掘調査で奈良時代の建築物跡と屋根瓦が検出され、また、地質調査によっても涌谷町の土質に純度の高い良質の砂金が含有されることが判明したことから、小田郡の産金地が当地であることが確実になった。

昭和34年(1959年)、附近一帯が「産金遺跡」として県の史跡となり、昭和42年(1967年)には「黄金山産金遺跡」として国の史跡に指定された。

例祭は9月15日。現在は、縁起の良い名前を持つ神社として、金運・財運・勝運、宝くじ当選祈願などに人気のパワースポットの一つになっている。

【ご利益】
商売繁盛、財運向上
黄金山神社(涌谷町) - 日本初の金の産出地、東大寺大仏の完成に寄与した式内古社
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黄金山神社(涌谷町)の御朱印