【日刊】日本の城
・名称:岐阜城 (ぎふじょう)
・別称:稲葉山城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:岐阜県岐阜市18
・日本100名城:第39番
- スタンプ:岐阜城資料館 岐阜城 (ぎふじょう)は、美濃国(今の岐阜県岐阜市)にあった日本の城である。山城。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したもの。『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。
築城年は1201年(建仁元年)であり、廃城年は1600年(慶長5年)。主な築城者は二階堂行政で、主な改修者は織田信長。
1201年(建仁元年)、二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まり。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃に美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)、斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。1533年(天文2年)、新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年)、守護代になった斎藤利政が、稲葉山山頂に築城を開始。1547年(天文16年)、織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。1554年(天文23年)に利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月 、義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。1561年(永禄4年)5月、義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。同年6月、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月、斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て、竹中らが城を半年間占拠する。1567年(永禄10年)9月、信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
1576年(天正4年)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の二ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。
1582年(天正10年)6月2日、信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると6月20日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。
同年6月27日、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。同年12月20日、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。
1583年(天正11年)4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。信孝は切腹。
同年5月、池田恒興が美濃国にて13万石を拝して大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政の居城となった。
1591年(天正19年)4月、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。1592年(文禄元年)9月9日、豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有して岐阜城の城主となる。
1600年(慶長5年)、秀信は、石田三成の挙兵に呼応して西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏。
1601年(慶長6年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に、御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移された。"
日本遺産「「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財の一つ。日本の歴史公園100選に「岐阜公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「信長天下統一の拠点の城下町と中山道の宿場町」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)は、お城ロボである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。
【関連サイト】
・岐阜城/観光コンベンション課/岐阜市公式ホームページ
【関連記事】
・日本遺産「「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜」(岐阜県岐阜市)
・名称:岐阜城 (ぎふじょう)
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・国宝:-
・重文:-
・住所:岐阜県岐阜市18
・日本100名城:第39番
- スタンプ:岐阜城資料館 岐阜城 (ぎふじょう)は、美濃国(今の岐阜県岐阜市)にあった日本の城である。山城。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したもの。『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。
築城年は1201年(建仁元年)であり、廃城年は1600年(慶長5年)。主な築城者は二階堂行政で、主な改修者は織田信長。
1201年(建仁元年)、二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まり。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃に美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)、斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。1533年(天文2年)、新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年)、守護代になった斎藤利政が、稲葉山山頂に築城を開始。1547年(天文16年)、織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。1554年(天文23年)に利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
1556年(弘治2年)4月 、義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。1561年(永禄4年)5月、義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。同年6月、十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
1564年(永禄7年)2月、斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て、竹中らが城を半年間占拠する。1567年(永禄10年)9月、信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。
同年、信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになる。
1576年(天正4年)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の二ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。
1582年(天正10年)6月2日、信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると6月20日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。
同年6月27日、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。同年12月20日、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。
1583年(天正11年)4月16日、信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。信孝は切腹。
同年5月、池田恒興が美濃国にて13万石を拝して大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政の居城となった。
1591年(天正19年)4月、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。1592年(文禄元年)9月9日、豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有して岐阜城の城主となる。
1600年(慶長5年)、秀信は、石田三成の挙兵に呼応して西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏。
1601年(慶長6年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に、御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移された。"
日本遺産「「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財の一つ。日本の歴史公園100選に「岐阜公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「信長天下統一の拠点の城下町と中山道の宿場町」として選ばれている。
キャラクター(ゆるキャラ)は、お城ロボである。関連情報はこちらのサイトに詳しい。

【関連サイト】
・岐阜城/観光コンベンション課/岐阜市公式ホームページ
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