【日刊】日本の城
・名称:岩村城(いわむらじょう)
・別称:霧ヶ城
・史跡:県の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:岐阜県恵那市岩村町城山
・日本100名城:第38番
- スタンプ:岩村歴史資料館受付窓口 岩村城(いわむらじょう)は、美濃国(今の岐阜県恵那市)にあった、江戸期には岩村藩の藩庁などにも機能した日本の城である。日本三大山城の一つ。女城主伝説で知られる。
築城年は1221年(承久3年)以降であり、廃城年は1871年(明治4年)である。主な築城者は遠山景朝で、主な改修者は河尻秀隆、各務元正である。
鎌倉の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。
『太平記』の1337年(延元2年/建武4年)に金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在していることが分かる。
1570年(元亀元年)、遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄の武将、秋山信友によって攻められたが、織田信長の武将、明智光秀の援護もあり、守り抜いた。
1571年(元亀2年)、景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣、同時に再び信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。
1575年(天正3年)、長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ、信長は岩村城奪還を行った。長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。
開城の際、助命が約されていたが、織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり、城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。
1582年(天正10年)、河尻秀隆が甲斐国に移封となると、団忠正の居城となるが3ヶ月と経たぬうちに本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。
この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正により退けられる。
1599年(慶長4年)、豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景に再度攻められる。戦後、田丸氏が改易されると、松平家乗が入城した。
1601年(慶長6年)、家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し、城下町を整備した。
1645年(正保2年)、大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。
1702年(元禄15年)、お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。
美しい日本の歴史的風土100選に「城下町岩村の街並み」として選ばれている。日本の秘境100選の一つ。
【関連サイト】
・岩村城跡 | 城下町ホットいわむら
・名称:岩村城(いわむらじょう)
・別称:霧ヶ城
・史跡:県の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:岐阜県恵那市岩村町城山
・日本100名城:第38番
- スタンプ:岩村歴史資料館受付窓口 岩村城(いわむらじょう)は、美濃国(今の岐阜県恵那市)にあった、江戸期には岩村藩の藩庁などにも機能した日本の城である。日本三大山城の一つ。女城主伝説で知られる。
築城年は1221年(承久3年)以降であり、廃城年は1871年(明治4年)である。主な築城者は遠山景朝で、主な改修者は河尻秀隆、各務元正である。
鎌倉の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。
『太平記』の1337年(延元2年/建武4年)に金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在していることが分かる。
1570年(元亀元年)、遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄の武将、秋山信友によって攻められたが、織田信長の武将、明智光秀の援護もあり、守り抜いた。
1571年(元亀2年)、景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣、同時に再び信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。
1575年(天正3年)、長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ、信長は岩村城奪還を行った。長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。
開城の際、助命が約されていたが、織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり、城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。
1582年(天正10年)、河尻秀隆が甲斐国に移封となると、団忠正の居城となるが3ヶ月と経たぬうちに本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。
この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正により退けられる。
1599年(慶長4年)、豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景に再度攻められる。戦後、田丸氏が改易されると、松平家乗が入城した。
1601年(慶長6年)、家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し、城下町を整備した。
1645年(正保2年)、大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。
1702年(元禄15年)、お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。
美しい日本の歴史的風土100選に「城下町岩村の街並み」として選ばれている。日本の秘境100選の一つ。

【関連サイト】
・岩村城跡 | 城下町ホットいわむら
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