【日刊】日本の城
・名称:一乗谷城(いちじょうだにじょう)
・別称:一乗谷朝倉氏遺跡復元町並
・史跡:国の特別史跡、国の特別名勝
・国宝:-
・重文:-
・住所:福井県福井市城戸ノ内町
・日本100名城:第37番
- スタンプ:復原町並入口(南・北) 一乗谷城(いちじょうだにじょう)は、越前国(今の福井県福井市)にあった、福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロ)に築かれた戦国時代の城下町と館跡及び背後の山城。
築城年は南北朝時代であり、廃城年は1575年(天正3年)である。主な築城者は朝倉氏で、主な改修者は桂田長俊である。
一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群だった。
また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り、交通の要衝でもあった。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が、計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。
『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから、応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため、一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
このため北ノ京とも呼ばれた。戦国四代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪。1567年(永禄10年)11月21日には戦国五代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄して大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治した。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反発して一揆を煽動、1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
一乗谷城は、朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。15世紀前半には築かれていたと考えられる。一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。
現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。全長1.5キロメートル、幅200メートルの曲輪を配し、主郭部分はおよそ600メートル×200メートル。
本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)となる。各曲輪は堀切によって区切られている(連郭式城郭)。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち四つの日本庭園は「一乗谷朝倉氏庭園」の名称で国の特別名勝の指定を受けている。美しい日本の歴史的風土100選に「一乗谷遺跡、城下町の遺産」として選ばれている。
【関連サイト】
・(一社)朝倉氏遺跡保存協会
・名称:一乗谷城(いちじょうだにじょう)
・別称:一乗谷朝倉氏遺跡復元町並
・史跡:国の特別史跡、国の特別名勝
・国宝:-
・重文:-
・住所:福井県福井市城戸ノ内町
・日本100名城:第37番
- スタンプ:復原町並入口(南・北) 一乗谷城(いちじょうだにじょう)は、越前国(今の福井県福井市)にあった、福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロ)に築かれた戦国時代の城下町と館跡及び背後の山城。
築城年は南北朝時代であり、廃城年は1575年(天正3年)である。主な築城者は朝倉氏で、主な改修者は桂田長俊である。
一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群だった。
また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り、交通の要衝でもあった。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が、計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。
『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから、応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため、一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
このため北ノ京とも呼ばれた。戦国四代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪。1567年(永禄10年)11月21日には戦国五代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄して大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治した。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反発して一揆を煽動、1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
一乗谷城は、朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。15世紀前半には築かれていたと考えられる。一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。
現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。全長1.5キロメートル、幅200メートルの曲輪を配し、主郭部分はおよそ600メートル×200メートル。
本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)となる。各曲輪は堀切によって区切られている(連郭式城郭)。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち四つの日本庭園は「一乗谷朝倉氏庭園」の名称で国の特別名勝の指定を受けている。美しい日本の歴史的風土100選に「一乗谷遺跡、城下町の遺産」として選ばれている。

【関連サイト】
・(一社)朝倉氏遺跡保存協会
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