【日刊】日本の城
名称:高遠城(たかとおじょう)
別称:兜山城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:長野県伊那市高遠町東高遠2295
日本100名城:第30番
  - スタンプ:伊那市立高遠町歴史博物館
高遠城(たかとおじょう)は、信濃国(今の長野県伊那市)にあった、江戸期には高遠藩の藩庁などにも機能した日本の城である。築城年は不明であり、廃城年は1872年(明治5年)。主な改修者は武田信玄である。

桜の名所としても有名で、伊那市では「天下第一のさくら」とし、また、日本三大桜の名所とされる場合がある。

城の縄張りは中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用として三層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭だった。

諏訪氏一門の高遠頼継が居城とし、甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある諏訪氏当主の頼重とは反目していた。

頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護武田晴信(信玄)に内応して諏訪攻略を援護。頼重は武田により滅ぼされるが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立。

1545年(天文14年)4月に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。

1555年(弘治元年)、武田氏は小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧して信濃を平定。高遠城は信濃への進出拠点として1547年(天文16年)に、山本勘助や秋山虎繁(信友)に命じて大規模な改築が行われた。

1556年(弘治2年)には秋山虎繁が城主となり、坂西氏などを伊那衆とした。

1562年(永禄5年)、晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主となる。城主であった秋山は飯田城代となる。

入城に際して改築が行われ、勝頼衆が預けられ親族衆に加えられたという。勝頼は1570年(元亀元年) に武田氏の正嫡であった義信が廃嫡される義信事件が起こると後継的立場となり、信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。

なお、勝頼の嫡子信勝の誕生と、信玄の父信虎の死去は、いずれも高遠城でのことである。

信玄後期から勝頼期にかけて武田氏は領国を接する織田・徳川氏と対立するようになり、高遠城は対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点となる。

武田氏は長篠の戦いにおける敗退を契機に領国の動揺を招き、勝頼は1581年(天正9年) に領国維持のため韮崎(韮崎市)への府中移転と同時に異母弟の仁科盛信を高遠城主とした。

翌1582年(天正10年)、勝頼は内通した木曾氏攻めを行い、仁科は大将として出陣し城代として小山田昌成(二代目備中守)が入った。

同年2月に織田信長は本格的な武田攻め(甲州征伐)を開始し、長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる守備兵の数は3000で、仁科は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕、仁科自身も城を枕に討ち死、城は落城した。

高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏は滅亡した。

織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利長秀が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こると、武田家に謀反を起した旧臣で信長から木曽谷・筑摩郡・安曇郡を安堵された木曾義昌が、突如として高遠城に攻め込み占領した。

以後、徳川家康と木曾義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曾義昌は高遠城を追われて深志城に撤退した。その後は家康方の保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方の小笠原貞慶が攻めたが撃退された。

江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏、保科氏、鳥居氏と城主が交代した。1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3000石で入封。以後、高遠城は内藤氏八代の居城として明治維新を迎えた。

日本さくら名所100選に「高遠城址公園」として、日本の歴史公園100選に「高遠城址公園」として選ばれている。
高遠城 信濃国(長野県伊那市) - サムネイル写真
【関連サイト】
高遠城址公園 - 伊那市