【日刊】日本の城
名称:小諸城(こもろじょう)
別称:酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城

史跡:-
国宝:-
重文:大手門、三之門

住所:長野県小諸市懐古園311
日本100名城:第28番
  - スタンプ:懐古園事務所
小諸城(こもろじょう)は、信濃国(今の長野県小諸市)にあった、江戸期には小諸藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は1554年(天文23年)であり、廃城年は不明。主な築城者は武田信玄で、主な改修者は仙石秀久である。

武田信玄以前にも、長享元年(1487年)に大井光忠によって築城されたとも。

戦国時代、武田信玄の東信州経営のために現在の縄張りとされた。現在残っている城跡の元になったものは信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられている。

安土桃山時代から江戸時代にかけて、石垣を構築した近世城郭に改修された。現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるもので、三重天守もその頃に建てられた。

天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失。

城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある。

また、浅間山の田切地形の深い谷を空堀として利用しており、西側の千曲川の断崖も天然の防御として利用されている。

天文23年(1554年)に竣工する。小諸城主は武田家の親族衆である武田信豊とみられているが異説もある。

勝頼期には御一門衆の下曾根浄喜が城代を務めており、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り、首を織田信長に進上したが、浄喜も誅殺されたという。

武田氏が滅んだ後に上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家臣の滝川一益が領し、城代は道家正栄が務める。天正10年6月2日の本能寺の変により相模国の後北条氏が上野へ侵攻し、6月19日に一益は後北条氏との神流川の戦いで敗退する。

敗走した一益は箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を経て碓氷峠を越え、6月21日に小諸城へ入城。6月21日には佐久郡の国衆・依田信蕃(よだのぶしげ)が小諸城において一益と面会し、一益は木曽郡の木曽義昌とも交渉し、6月27日に小諸城を退去して佐久・木曽両郡を通過し、本国の伊勢国長島へ帰還。

これにより小諸城主は依田信蕃となる。

後に徳川氏に引き渡された。その後小田原征伐での功労が認められ、5万石で大名に再び列せられた仙石秀久が天正18年(1590年)に入城。

秀久は関ヶ原の戦いでは東軍についたが、その後も元和8年(1622年)に二代忠政が上田城へ転封となるまで居城した。

江戸時代には小諸藩の藩庁が置かれ、その後は松平氏、青山氏、酒井氏などが封じられたが、元禄15年(1702年)に牧野康重が移封された後は国替えは行われず、牧野氏十代康済の時に明治を迎えた。

城跡は、市営公園小諸城址懐古園(こもろじょうし かいこえん)として整備、公開されており、入場は有料。市が宗教法人懐古神社から賃貸している形。懐古園そのものがそうだが、『あの夏で待っている』の聖地である懐古神社は本丸跡に鎮座する。

日本さくら名所100選に「小諸城趾懐古園」として、日本の歴史公園100選に「小諸公園 小諸城址 懐古園」として選ばれている。
小諸城 信濃国(長野県小諸市) - サムネイル写真
【関連サイト】
小諸城址「懐古園」 - 小諸市観光協会