【日刊】日本の城
・名称:上田城(うえだじょう)
・別称:尼ヶ淵城、真田城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:長野県上田市二の丸2
・日本100名城:第27番
- スタンプ:上田市立博物館、上田市観光会館 上田城(うえだじょう)は、信濃国(今の長野県上田市)にあった日本の城である。甲斐武田氏の有力武将であった真田昌幸が上田・小県地方制圧の拠点として、1583年(天正11年)に築城に着手した。廃城年は1874年(明治7年)。
昌幸は、主家滅亡後に織田信長に臣従し、滝川一益の与力となるが、上野に乗り込んだ滝川一益が神流川の戦いで北条氏に敗退して以後、周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で揺れ動くことになる(天正壬午の乱)。
滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換える。しかし翌年には北条・徳川の和議に反発して徳川と決別、当初は北側に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更している。
1585年(天正13年)、次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第一次上田合戦)。
1600年(慶長5年)、徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱した昌幸が、石田三成の西軍に与しておよそ2000の兵力で上田城に篭城。
徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、前回に続いて守り抜いた(第二次上田合戦)。この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、上洛を命じる使者の遅れにより関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
1601年(慶長6年)、真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊される。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。
1622年(元和8年)、真田家は同国松代に移封され、松代城に入る。1626年(寛永3年)、代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後の1628年(寛永5年)忠政の死により城普請は中断。以後仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。
大坂城(大阪城)と友好城郭となっている。結果こそ異なるものの、ともに徳川の大軍により二度の攻撃を受け、上田城では真田昌幸が、大坂城では真田幸村(昌幸の次子信繁)が守城戦で功績があるつながりによる。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園として整備されており、毎年花見の季節になると、多くの市民や観光客で賑わう。上田城千本桜まつり、上田真田まつり、上田城跡能、真田幸村出陣まつりなど多くのイベントが用意されている。
本丸跡には、明治期に松平神社として建立された、歴代城主を祀った、現在は真田神社と呼ばれる神社がある。
2007年(平成19年)12月14日放送のBS熱中夜話(日本の城 前編)「お城ファンが選んだ 好きな城ベスト10」では、姫路城(2位)大阪城(3位)を抑えて1位に選ばれている。
日本の歴史公園100選に「上田城跡公園」として選ばれている。
【関連サイト】
・上田城跡公園 - 上田市
【関連記事】
・山家神社 - 真田氏が崇敬した水分の神「白山様」、上田城鬼門、境内に真田神社
・名称:上田城(うえだじょう)
・別称:尼ヶ淵城、真田城
・史跡:国の史跡
・国宝:-
・重文:-
・住所:長野県上田市二の丸2
・日本100名城:第27番
- スタンプ:上田市立博物館、上田市観光会館 上田城(うえだじょう)は、信濃国(今の長野県上田市)にあった日本の城である。甲斐武田氏の有力武将であった真田昌幸が上田・小県地方制圧の拠点として、1583年(天正11年)に築城に着手した。廃城年は1874年(明治7年)。
昌幸は、主家滅亡後に織田信長に臣従し、滝川一益の与力となるが、上野に乗り込んだ滝川一益が神流川の戦いで北条氏に敗退して以後、周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で揺れ動くことになる(天正壬午の乱)。
滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換える。しかし翌年には北条・徳川の和議に反発して徳川と決別、当初は北側に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更している。
1585年(天正13年)、次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第一次上田合戦)。
1600年(慶長5年)、徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱した昌幸が、石田三成の西軍に与しておよそ2000の兵力で上田城に篭城。
徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、前回に続いて守り抜いた(第二次上田合戦)。この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、上洛を命じる使者の遅れにより関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
1601年(慶長6年)、真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊される。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。
1622年(元和8年)、真田家は同国松代に移封され、松代城に入る。1626年(寛永3年)、代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後の1628年(寛永5年)忠政の死により城普請は中断。以後仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。
大坂城(大阪城)と友好城郭となっている。結果こそ異なるものの、ともに徳川の大軍により二度の攻撃を受け、上田城では真田昌幸が、大坂城では真田幸村(昌幸の次子信繁)が守城戦で功績があるつながりによる。
現在は旧二の丸内が上田城跡公園として整備されており、毎年花見の季節になると、多くの市民や観光客で賑わう。上田城千本桜まつり、上田真田まつり、上田城跡能、真田幸村出陣まつりなど多くのイベントが用意されている。
本丸跡には、明治期に松平神社として建立された、歴代城主を祀った、現在は真田神社と呼ばれる神社がある。
2007年(平成19年)12月14日放送のBS熱中夜話(日本の城 前編)「お城ファンが選んだ 好きな城ベスト10」では、姫路城(2位)大阪城(3位)を抑えて1位に選ばれている。
日本の歴史公園100選に「上田城跡公園」として選ばれている。
【関連サイト】
・上田城跡公園 - 上田市
【関連記事】
・山家神社 - 真田氏が崇敬した水分の神「白山様」、上田城鬼門、境内に真田神社
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