【日刊】日本の城
名称:松代城(まつしろじょう)
別称:海津城、貝津城、茅津城、長野城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:長野県長野市松代町松代44
日本100名城:第26番
  - スタンプ:松代城管理棟
松代城(まつしろじょう)は、信濃国(今の長野県長野市)にあった、江戸期には松代藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は1560年(永禄3年)であり、廃城年は1873年(明治6年)。主な築城者は武田信玄で、主な改修者は田丸直昌、森忠政である。

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つ。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っているとされる。

戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。

千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城、本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。

海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成。

海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置し、1561年(永禄4年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると城代の春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し、信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われた。

海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられている。

武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城となる。長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが、彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。

本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却を決断、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し、海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。

1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止された。この時、海津城から待城(まつしろ)へと改名された。

1603年(慶長8年)、森忠政は美作一国(津山藩)18万6500石へと加増転封され、松平忠輝が14万石で入封。忠輝は加増されて越後高田藩主75万石となるが、旧領も引き続き領有したため、家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力した。

1616年(元和2年)、松平忠輝改易。代わって松平忠昌が12万石で入り、この忠昌領主時代に待城から松城へと改名された。

1619年(元和5年)、松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。酒井忠勝10万石が入封。1622年(元和8年)、酒井忠勝、出羽国庄内藩13万8千石に転封。真田信之が13万石で入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。

日本の歴史公園100選に「松代城公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「善光寺の門前町、戸隠神社、真田家城下町 松代」として選ばれている。
松代城 信濃国(長野県長野市) - サムネイル写真
【関連サイト】
松城城跡 - 真田宝物館

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