【日刊】日本の城
名称:箕輪城(みのわじょう)
別称:-

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:群馬県高崎市箕郷町西明屋
日本100名城:第16番
  - スタンプ:高崎市役所箕郷支所受付窓口(箕郷公民館)
箕輪城(みのわじょう)は、上野国(今の群馬県高崎市)にあった日本の城である。

築城年は1512年(永正9年であり、廃城年は1598年(慶長3年)。主な築城者は長野業尚で、主な改修者は武田氏、北条氏、井伊氏である。

榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成。

城地は東西約500メートル、南北約1100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。

永正9年(1512年)、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。また、大永6年(1526年)に業尚の子の信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。

戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す。

このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有する。

永禄4年(1561年)11月、業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始。近隣の城を落としていった。

永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立、翌永禄9年(1566年)に武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。

こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年)、長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。

天正10年(1582年)2月の天目山の戦いで武田氏は滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。

しかし、同年6月2日、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻。同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。

直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となった。
箕輪城 上野国(群馬県高崎市) - サムネイル写真
【関連サイト】
箕輪城跡(高崎市の文化財) - 高崎市