【日刊】日本の城
・名称:水戸城(みとじょう)
・別称:馬場城、水府城
・史跡:国の特別史跡(三の丸にある水戸藩藩校であった弘道館)
・国宝:-
・重文:-
・住所:茨城県水戸市三の丸
・日本100名城:第14番
- スタンプ:弘道館料金所窓口 水戸城(みとじょう)は、常陸国(今の茨城県水戸市)にあった日本の城である。
築城年は建久年間(1190年 - 1198年)であり、廃城年は1871年(明治4年)。主な築城者は馬場資幹で、主な改修者は佐竹義宣、徳川頼房である。
水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年-1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に、秀吉軍に参陣した佐竹義重・義宣父子は常陸一国54万石を与えられた。義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。
義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは態度を保留したため、義宣は水戸から追放された。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌慶長8年(1603年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
慶長14年(1609年)、頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。
本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。
徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか、城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かった。
江戸時代の櫓は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校(弘道館=日本遺産「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財の一つ)などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。
天守は建造されず、三重五階建ての御三階櫓があった。実質的な天守とされた御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。
薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されている。
城としてのマスコットキャラクター(ゆるキャラ)などは特になし。
日本の歴史公園100選に「弘道館公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「水戸徳川家の歴史的文化的遺産(偕楽園、千波湖、保和苑、弘道館、水戸城址など)」として選ばれている。
【関連サイト】
・水戸城址(二の丸展示館) « 一般社団法人 水戸観光協会
・名称:水戸城(みとじょう)
・別称:馬場城、水府城
・史跡:国の特別史跡(三の丸にある水戸藩藩校であった弘道館)
・国宝:-
・重文:-
・住所:茨城県水戸市三の丸
・日本100名城:第14番
- スタンプ:弘道館料金所窓口 水戸城(みとじょう)は、常陸国(今の茨城県水戸市)にあった日本の城である。
築城年は建久年間(1190年 - 1198年)であり、廃城年は1871年(明治4年)。主な築城者は馬場資幹で、主な改修者は佐竹義宣、徳川頼房である。
水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。
築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年-1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に、秀吉軍に参陣した佐竹義重・義宣父子は常陸一国54万石を与えられた。義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。
義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは態度を保留したため、義宣は水戸から追放された。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌慶長8年(1603年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
慶長14年(1609年)、頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。
本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。
徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか、城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かった。
江戸時代の櫓は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校(弘道館=日本遺産「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財の一つ)などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。
天守は建造されず、三重五階建ての御三階櫓があった。実質的な天守とされた御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。
薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されている。
城としてのマスコットキャラクター(ゆるキャラ)などは特になし。
日本の歴史公園100選に「弘道館公園」として、美しい日本の歴史的風土100選に「水戸徳川家の歴史的文化的遺産(偕楽園、千波湖、保和苑、弘道館、水戸城址など)」として選ばれている。
【関連サイト】
・水戸城址(二の丸展示館) « 一般社団法人 水戸観光協会


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