【日刊】日本の城
名称:二本松城(にほんまつじょう)
別称:霞ヶ城、白旗城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:-

住所:福島県二本松市郭内4丁目
日本100名城:第11番
  - スタンプ:二本松市歴史資料館受付窓口、JR二本松駅内観光案内所
二本松城(にほんまつじょう)は、陸奥国(今の福島県二本松市)にあった、江戸期には二本松藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は室町時代中期であり、廃城年は1872年(明治5年)。主な築城者は二本松満泰で、主な改修者は丹羽光重である。

二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345メートルの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。

1341年(興国2年/暦応4年)、室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏七代当主・二本松満泰が、1414年(応永21年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に二本松城を築いた。

以後、陸奥国に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。1585年(天正13年)10月、十五代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。

輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。

政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城した。城は政宗の猛攻によく耐えたが、翌1586年(天正14年)7月16日、政宗への内通者も出たため、相馬義胤の口添えにより二本松城は開城し、ここに二本松氏は滅亡した。

政宗以降、江戸前期まで、城主や城代はめまぐるしく変わる。1643年(寛永20年)、白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城し、光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行い、本丸に石垣が積まれ、三重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。

1868年(慶応4年)の戊辰戦争で、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦闘、わずか1日で落城し、その際多くの建物などが焼失した。1872年(明治5年)、廃城令によって残った建物も全て破却された。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。

城の入り口には七代藩主・丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた「戒石銘碑」があり、1935年(昭和10年)に「旧二本松藩戒石銘碑」として国の史跡に指定されている。

城郭由来の建造物として、県指定文化財の茶亭「洗心亭」が、明治時代に城内に再移築され現存する。

「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選と日本の歴史公園100選にそれぞれ選ばれている。

城としてのマスコットキャラクター(ゆるキャラ)などは特になし。
二本松城 陸奥国(福島県二本松市) - サムネイル写真
【関連サイト】
二本松城 - 二本松市