【日刊】日本の城
名称:松前城(まつまえじょう)
別称:福山城

史跡:国の史跡
国宝:-
重文:本丸御門

住所:北海道松前郡松前町字松城
日本100名城:第3番
  - スタンプ:松前城資料館施設内
松前城(まつまえじょう)は、蝦夷地(今の北海道松前町)にあった、江戸期には松前藩の藩庁などにも機能した日本の城である。

築城年は1606年(慶長11年)、天守の築造年は、1854年(安政元年)である。

石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。北海道内で唯一つの日本式城郭。

蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、慶長5年(1600年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた。福山館である。

後にロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。

長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の天守を上げ、1854年(安政元年)に竣工し、この頃から松前城と呼ばれるようになったと伝わる。

海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は複雑かつ側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。

幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。1868年(明治元年)秋、蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、官軍の拠点である五稜郭を制圧した後、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩兵は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。

上述のように、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えだったが、搦手方からは敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備となっており、これを土方に衝かれた形。

しかし、翌1869年(明治2年)に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の領有となり、1871年(明治4年)の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となった。1875年(明治8年)には天守など本丸の施設を除くほとんどの建築物が取り壊された。

天守は1949年(昭和24年)6月5日に失火により焼失。そのため、創建当時から現存する建築物は切り妻造りの本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。

旧国宝の本丸御門は、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後は重要文化財に指定されている。曲輪も天守が焼失した際の火災に巻き込まれず、焼け残った古い建築物である。曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国の史跡に指定されている。

「松前公園」として日本さくら名所100選と日本の歴史公園100選に、「松前家城下町の遺産」として美しい日本の歴史的風土100選に、それぞれ選ばれている。

キャラクター(ゆるキャラ)はない。松前町のマスコットキャラクターとして、大漁くんがいる。関連情報はこちらのサイトに詳しい。
松前城 蝦夷地(北海道松前町) - サムネイル写真
【関連サイト】
日本最北の城下町 松前の文化財