日本は、怨霊を恐れ、これを鎮魂する信仰のある国である。
だからこそ、世界に類を見ない民族性が生まれている。それは、一神教や“強い”倫理観では絶対に生じない、多様性だったり、柔軟性だったり、そして今、日本が世界から注目され、尊敬される要因の一つになっている、と思う。
この当たりを解析した、梅原猛氏、井沢元彦氏の所論は卓見だ。両氏の著作に詳しいが、両氏が、特にプロ野球フリークとしても名高い井沢氏が、なぜか触れてこなかった、今も厳然と機能している怨霊信仰がある。
プロ野球の沢村栄治賞(沢村賞)だ。
オオクニヌシ、菅原道真、超有名人(神)ではあるが、現代人には遠い。しかし、気づかない間に、日本人であるならば、今なおその影響を受けていることは間違いない。
それでも分かりずらい。
沢村賞こそ、現代人にも極めて分かりやすい、怨霊信仰の極地なのではないか。今さら述べるまでもなく、あまりにも歴然としているので、すでに誰か指摘しているのかもしれないが。
改めて整理してみる。
名投手ならば何回も受賞している例もあるが、要は、その年度、日本最高(つまり世界最高)の先発ピッチャーにしか与えられない栄誉だ。
この賞の創設は、伝説の名投手・沢村栄治氏の“戦死”(1944年)直後とも言うべき1947年。
大投手を記念する、というのが表向きの理由だが、実際は、非業の死を遂げた沢村投手の鎮魂のため、に他ならないのではないか、というが本稿の趣旨である。
梅原氏、井沢氏の所論を引くまでもなく、“怨霊”となりえる要素が満載だ。
今では、その意義も忘れられて、沢村賞が一つの、というより、その年の最高の投手の勲章になっている。
それはそれでよい。
怨霊・御霊信仰というのはそもそもそういうもので、菅原道真のように、怨霊となってしまった=現在は学問の最高の神、という等式が成り立ち認知されている方が珍しく、きっかけなどは忘れ去られている方が多数だ。
そこをあえてほじくり返そう、というのではない。
繰り返すが、それはそれでよいのだ。
しかし、沢村賞が沢村投手の怨霊を恐れた、当時のプロ野球、特におそらくはプロ野球を牛耳っていたであろう巨人首脳による恐怖から生まれたものであり、それが今現在、確かに確固たる名誉ある賞として定着、存続している、という事実。
これこそが日本の怨霊信仰なのだ、ということを説明したいだけである。
それでは、どういうことなのか、に話しを進めたい。
沢村賞は誰か、というのは、その年の活躍に応じて、誰の目にも明らか、というケースも多いものの、日本プロ野球球界の最大の関心事の一つ。
そのため、当たり前なのだが、プロ野球に興味ある方はもちろん、興味ない方でもテレビなどの報道で、年間に一度ならず思い浮かべる(これこそ鎮魂に最適な方法)、伝説の日本のプロ野球選手。
1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)の澤村賢二・みちえ夫婦の長男として生まれる。
伊勢市の出身はもちろん、あくまでも偶然だろう。伊勢の神宮(伊勢神宮)の話ではなく(少し絡んでくるような気もするが)、『古事記』にも明記されたある神が非業の死を遂げた、まさにその場所と同じ、ということ。
それはともかく、京都商業学校(現在の京都学園高等学校)の投手として1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場。1試合23奪三振を記録するなど、才能の片鱗を見せた。
1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退して、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦する。
ここが一つの重要なポイント。
正力松太郎氏が強引に口説いて高校を中退させて巨人入りさせたと言われている。正力氏は「一生面倒をみる」とまで言ったという。
アメリカに度々遠征して名を挙げた沢村投手は、日本初のMLB選手、というのが、勘違いも含めて、一歩手前だった、というエピソードもある。
日本でプロ野球(職業野球)リーグが開始された1936年秋に史上初のノーヒットノーランを達成する。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦(現在の日本シリーズの起源)では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。
まさに大投手。
生涯のプロ通算成績は63勝22敗、防御率1.74。
勝敗だけを見れば、今の感覚では普通だが、後述するような事情がある。ただし、この防御率は勝率や敗戦数と比してあり得ない。やはりスゴイ選手だ。
プロ入り後、通算三度出征する。
そもそも、職業野球リーグの翌年、日中戦争が勃発している。きな臭いご時世ではあった。
日本に戻るたびに復活してマウンドに上がるが、結果から見れば、1937年春のリーグ戦で先発24度、24勝(4敗)をピークとして、二ケタ勝利はなくなる。というか、1938-39年は登板自体がない。
戦争のためだ。
成績不振が重なり、1944年シーズン開始前に巨人からついに解雇された。鈴木惣太郎氏から「巨人の沢村で終わるべきだ」と諭され、他球団から誘いがあったのも断り、現役をも引退。
ここも一つのポイント。
さらに、大変残念なことに、その直後1944年に再び出征し、戦死する。
享年わずかに27歳。
その後、前述したように、戦争が終了して間もなくの1947年、沢村賞が設立される。
その人柄が偲ばれる。
しかし、沢村戦死の報を受けた巨人首脳(正力氏、鈴木氏など)はどう感じたか。
もちろんその前後は戦争末期でそれどころではなかっただろうが、終戦を迎え、落ち着くにつれて。
――恐怖した
だろう。日本の、失うものの多い権力者のよくあるパターンである。
何に恐怖したのか。
沢村投手の怨霊にである。
語弊がないように言っておくが、沢村投手個人は、前述のように、人柄に優れた、いわば人徳者であり、マイナスの要素は一切ない。
心の底で何を考えていたかうかがいは知れないが、少なくとも、巨人首脳を恨んでいた、という証拠は一切なく、むしろ自分を責めていたぐらいだったという。
菅原道真公と同じだ。怨霊になったのは生前の本人の意志ではない、はず。
だから、「沢村投手の怨霊」を感じたのは、あくまでも巨人首脳の方だけ。沢村投手個人とは何にも関わりはない。
巨人首脳がどう感じたか、が問題なのだ。
怨霊信仰はつまり、少なくとも当初は、負い目のある方から生じる信仰だ、ということである。
高校を中退することなく、普通に卒業し、沢村投手の力量であれば、野球推薦でも何でも、大学卒業という高学歴も手に入れることができた。
そうなれば、三度も出征するはずもなく、したがって戦死することもなく、戦争を無事乗り越えた可能性がある。
1945年終戦時点で28歳。今の感覚から言っても、プロ選手としては若いとは言えないが、そこから十分活躍できた年齢ではある。
たられば、の世界だ。
しかし、これこそが、権力者が最も気にするところでもある。
- 高校を中退させたのは誰か?
- 一生面倒見ると言っときながら、成績不振で解雇したのは誰か?
- 「巨人の沢村で終わるべきだ」と言って現役そのものを退かせたのは誰か?
その上で、最終的に戦死という最悪の結果。
くどいようだが、沢村選手がどう感じていたか、ではない。
巨人首脳が、以上をすべて鑑み、戦死した沢村投手に恨まれると考えた。これは、現代の日本人でも極めて理解しやすい感情ではないだろうか。
こうして、怨霊は発生する。
その中で、しかし、両氏も葛藤、後悔があったのではないか、それらが“恐怖”に結実した、かもしれない、その可能性を論じている。
日本史上における怨霊も、「化けて出るぞ」と生前宣言した怨霊というのは、むしろ少数派で(そちらのほうが、個性的であるがゆえに強力なのだが)、その人の死後、その人の周り、特に権力者がどう感じたか、がポイントになっている。
沢村投手の一件、まさにこのパターンなのだ。
こうして、沢村賞は創設された。
何のために?
沢村投手が偉大な選手だったからか。それを記念するためか。無論、それもあるだろう。認知されやすい。
しかし、根底には、巨人首脳の偉大な故人に対する贖罪があったはずだ。怨霊にならないでくれ、という願望のための、鎮魂のために。
巨人首脳がそのように述懐していた、などというわけではなく、今までの話、特に証拠があるでもないし、あくまでも想像ではあるが、事実と大きく的を外してはいないような気がする。
日本のプロ野球が不滅である限り、それは本当に未来永劫、変わらない。
それは、日本人が決して沢村投手を忘れない、鎮魂し続けるための儀式でもある。
巨人首脳の当時のリアルタイムの恐怖が、今まさに、このように儀式として定着しているのである。
それを癪だ、と感じる人もいるかもしれない。特にアンチ巨人の方々。
しかし、そこは考えまい。
きっかけはどうであれ、定着するということこそが大事なのだ。きっかけはいつか忘れ去られるが、その儀式だけは未来永劫続く。
それが日本の信仰 - 鎮魂。
それは日本全国各地で開かれる、道真の天神祭、スサノヲの天王祭、あらゆる日本の祭りも同じ。
現権力側に連ならないのに、やたらと全国各地に祀られているオオクニヌシ、サルタヒコ、ニギハヤヒらも、結局は同じなのだろう。
日本のプロ野球というものの根底にも、やはり鎮魂の思想が今も生き、そして流れている。
古事記時代と、そこは何一つ変わらない。
だからこそ、日本の野球は世界一なのかもしれない。
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だからこそ、世界に類を見ない民族性が生まれている。それは、一神教や“強い”倫理観では絶対に生じない、多様性だったり、柔軟性だったり、そして今、日本が世界から注目され、尊敬される要因の一つになっている、と思う。
この当たりを解析した、梅原猛氏、井沢元彦氏の所論は卓見だ。両氏の著作に詳しいが、両氏が、特にプロ野球フリークとしても名高い井沢氏が、なぜか触れてこなかった、今も厳然と機能している怨霊信仰がある。
プロ野球の沢村栄治賞(沢村賞)だ。
オオクニヌシ、菅原道真、超有名人(神)ではあるが、現代人には遠い。しかし、気づかない間に、日本人であるならば、今なおその影響を受けていることは間違いない。
それでも分かりずらい。
沢村賞こそ、現代人にも極めて分かりやすい、怨霊信仰の極地なのではないか。今さら述べるまでもなく、あまりにも歴然としているので、すでに誰か指摘しているのかもしれないが。
改めて整理してみる。
問題提起:沢村賞の意義と創設
沢村賞は、沢村栄治選手を記念して創設された、現在では日本のプロ野球において、先発完投型のピッチャーが一度は取りたい、しかし年間一人(セパ両リーグあわせても一人)が獲得できるかどうかの、名誉ある賞(過去に、「該当者なし」の年が何回かあった)。名投手ならば何回も受賞している例もあるが、要は、その年度、日本最高(つまり世界最高)の先発ピッチャーにしか与えられない栄誉だ。
この賞の創設は、伝説の名投手・沢村栄治氏の“戦死”(1944年)直後とも言うべき1947年。
大投手を記念する、というのが表向きの理由だが、実際は、非業の死を遂げた沢村投手の鎮魂のため、に他ならないのではないか、というが本稿の趣旨である。
偉大なスターとその「非業の死」
“鎮魂の碑”(東京都文京区後楽の東京ドーム敷地内)に刻まれた方々の中でも、まさに偉大なスターであり、「非業の死」をされた方ではないだろうか。梅原氏、井沢氏の所論を引くまでもなく、“怨霊”となりえる要素が満載だ。
今では、その意義も忘れられて、沢村賞が一つの、というより、その年の最高の投手の勲章になっている。
それはそれでよい。
怨霊・御霊信仰というのはそもそもそういうもので、菅原道真のように、怨霊となってしまった=現在は学問の最高の神、という等式が成り立ち認知されている方が珍しく、きっかけなどは忘れ去られている方が多数だ。
そこをあえてほじくり返そう、というのではない。
繰り返すが、それはそれでよいのだ。
しかし、沢村賞が沢村投手の怨霊を恐れた、当時のプロ野球、特におそらくはプロ野球を牛耳っていたであろう巨人首脳による恐怖から生まれたものであり、それが今現在、確かに確固たる名誉ある賞として定着、存続している、という事実。
これこそが日本の怨霊信仰なのだ、ということを説明したいだけである。
それでは、どういうことなのか、に話しを進めたい。
レジェンドの誕生と巨人入団まで
沢村栄治。沢村賞は誰か、というのは、その年の活躍に応じて、誰の目にも明らか、というケースも多いものの、日本プロ野球球界の最大の関心事の一つ。
そのため、当たり前なのだが、プロ野球に興味ある方はもちろん、興味ない方でもテレビなどの報道で、年間に一度ならず思い浮かべる(これこそ鎮魂に最適な方法)、伝説の日本のプロ野球選手。
1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)の澤村賢二・みちえ夫婦の長男として生まれる。
伊勢市の出身はもちろん、あくまでも偶然だろう。伊勢の神宮(伊勢神宮)の話ではなく(少し絡んでくるような気もするが)、『古事記』にも明記されたある神が非業の死を遂げた、まさにその場所と同じ、ということ。
それはともかく、京都商業学校(現在の京都学園高等学校)の投手として1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場。1試合23奪三振を記録するなど、才能の片鱗を見せた。
1934年の夏の大会終了後に京都商業を中退して、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦する。
ここが一つの重要なポイント。
正力松太郎氏が強引に口説いて高校を中退させて巨人入りさせたと言われている。正力氏は「一生面倒をみる」とまで言ったという。
レジェンドのプロ生活
日米野球では、今やまさにレジェンドである、ルー・ゲーリック、ベーブ・ルースらとも対戦し、完ぺきに抑えた、わけではないにせよ、当時の日米の力量の差から言えば、善戦・力投した。アメリカに度々遠征して名を挙げた沢村投手は、日本初のMLB選手、というのが、勘違いも含めて、一歩手前だった、というエピソードもある。
日本でプロ野球(職業野球)リーグが開始された1936年秋に史上初のノーヒットノーランを達成する。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦(現在の日本シリーズの起源)では3連投し、巨人に初優勝をもたらした。
まさに大投手。
生涯のプロ通算成績は63勝22敗、防御率1.74。
勝敗だけを見れば、今の感覚では普通だが、後述するような事情がある。ただし、この防御率は勝率や敗戦数と比してあり得ない。やはりスゴイ選手だ。
プロ入り後、通算三度出征する。
そもそも、職業野球リーグの翌年、日中戦争が勃発している。きな臭いご時世ではあった。
享年わずかに27歳での戦死
当時の新聞記事では、戦地において、手りゅう弾の名手、とされたという。野球のボールより数倍重い手りゅう弾を、戦地で必要に応じて連投していれば、肩を壊すのは、今の目から見れば常識だし、実際そうなったようだ。日本に戻るたびに復活してマウンドに上がるが、結果から見れば、1937年春のリーグ戦で先発24度、24勝(4敗)をピークとして、二ケタ勝利はなくなる。というか、1938-39年は登板自体がない。
戦争のためだ。
成績不振が重なり、1944年シーズン開始前に巨人からついに解雇された。鈴木惣太郎氏から「巨人の沢村で終わるべきだ」と諭され、他球団から誘いがあったのも断り、現役をも引退。
ここも一つのポイント。
さらに、大変残念なことに、その直後1944年に再び出征し、戦死する。
享年わずかに27歳。
その後、前述したように、戦争が終了して間もなくの1947年、沢村賞が設立される。
沢村戦死の報を受けた巨人首脳はどう受け止めたか?
生前、沢村選手は、巨人に解雇されても、「大投手などと煽てられていい気になっていた、わしがあほやったんや」と語ったり、自分を責めるだけで正力や巨人に対する恨みごとは言わず、入営時には笑顔さえ見せていたという。その人柄が偲ばれる。
しかし、沢村戦死の報を受けた巨人首脳(正力氏、鈴木氏など)はどう感じたか。
もちろんその前後は戦争末期でそれどころではなかっただろうが、終戦を迎え、落ち着くにつれて。
――恐怖した
だろう。日本の、失うものの多い権力者のよくあるパターンである。
何に恐怖したのか。
沢村投手の怨霊にである。
語弊がないように言っておくが、沢村投手個人は、前述のように、人柄に優れた、いわば人徳者であり、マイナスの要素は一切ない。
心の底で何を考えていたかうかがいは知れないが、少なくとも、巨人首脳を恨んでいた、という証拠は一切なく、むしろ自分を責めていたぐらいだったという。
菅原道真公と同じだ。怨霊になったのは生前の本人の意志ではない、はず。
だから、「沢村投手の怨霊」を感じたのは、あくまでも巨人首脳の方だけ。沢村投手個人とは何にも関わりはない。
巨人首脳がどう感じたか、が問題なのだ。
怨霊信仰はつまり、少なくとも当初は、負い目のある方から生じる信仰だ、ということである。
怨霊発生のメカニズム - 沢村投手の場合
高校中退という学歴が、沢村投手の三度もの出征につながった、という説がある。高校を中退することなく、普通に卒業し、沢村投手の力量であれば、野球推薦でも何でも、大学卒業という高学歴も手に入れることができた。
そうなれば、三度も出征するはずもなく、したがって戦死することもなく、戦争を無事乗り越えた可能性がある。
1945年終戦時点で28歳。今の感覚から言っても、プロ選手としては若いとは言えないが、そこから十分活躍できた年齢ではある。
たられば、の世界だ。
しかし、これこそが、権力者が最も気にするところでもある。
- 高校を中退させたのは誰か?
- 一生面倒見ると言っときながら、成績不振で解雇したのは誰か?
- 「巨人の沢村で終わるべきだ」と言って現役そのものを退かせたのは誰か?
その上で、最終的に戦死という最悪の結果。
くどいようだが、沢村選手がどう感じていたか、ではない。
巨人首脳が、以上をすべて鑑み、戦死した沢村投手に恨まれると考えた。これは、現代の日本人でも極めて理解しやすい感情ではないだろうか。
こうして、怨霊は発生する。
こうして、沢村賞は創設された
念のため、本稿は正力氏、鈴木氏の評価を貶めることが目的ではない。今さら述べるまでもなく、戦後、プロ野球が復興し、定着したのには両氏の尽力は絶大であり、球界への貢献は極めて大きい。その中で、しかし、両氏も葛藤、後悔があったのではないか、それらが“恐怖”に結実した、かもしれない、その可能性を論じている。
日本史上における怨霊も、「化けて出るぞ」と生前宣言した怨霊というのは、むしろ少数派で(そちらのほうが、個性的であるがゆえに強力なのだが)、その人の死後、その人の周り、特に権力者がどう感じたか、がポイントになっている。
沢村投手の一件、まさにこのパターンなのだ。
こうして、沢村賞は創設された。
何のために?
沢村投手が偉大な選手だったからか。それを記念するためか。無論、それもあるだろう。認知されやすい。
しかし、根底には、巨人首脳の偉大な故人に対する贖罪があったはずだ。怨霊にならないでくれ、という願望のための、鎮魂のために。
巨人首脳がそのように述懐していた、などというわけではなく、今までの話、特に証拠があるでもないし、あくまでも想像ではあるが、事実と大きく的を外してはいないような気がする。
これが日本の信仰であり、世界一の野球の根源、かも
とにもかくにも、今年も、来年も、その次の年も、毎年沢村賞の行方は気になる、気にされる。日本のプロ野球が不滅である限り、それは本当に未来永劫、変わらない。
それは、日本人が決して沢村投手を忘れない、鎮魂し続けるための儀式でもある。
巨人首脳の当時のリアルタイムの恐怖が、今まさに、このように儀式として定着しているのである。
それを癪だ、と感じる人もいるかもしれない。特にアンチ巨人の方々。
しかし、そこは考えまい。
きっかけはどうであれ、定着するということこそが大事なのだ。きっかけはいつか忘れ去られるが、その儀式だけは未来永劫続く。
それが日本の信仰 - 鎮魂。
それは日本全国各地で開かれる、道真の天神祭、スサノヲの天王祭、あらゆる日本の祭りも同じ。
現権力側に連ならないのに、やたらと全国各地に祀られているオオクニヌシ、サルタヒコ、ニギハヤヒらも、結局は同じなのだろう。
日本のプロ野球というものの根底にも、やはり鎮魂の思想が今も生き、そして流れている。
古事記時代と、そこは何一つ変わらない。
だからこそ、日本の野球は世界一なのかもしれない。
【関連記事】
・なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
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