竹佐々夫江神社周辺、その上空
次の年、つまり第11代垂仁天皇28年の、同じ秋の頃、真名鶴は、皇大神宮に向かって天翔り、北より来て、日夜止まらずに翔り、鳴いた。時は昼の始め。

倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、再び異なことと思い、足速男命に見に行かせた。

足速男命が行くと、鶴は佐佐牟江宮の前の葦原の中で行き来して鳴いていた。そこへ行って見ると、葦原の中から育った稲の、本は一基で、末は八百穂に茂り、(鶴は穂を)咥え捧げ持って鳴いていた。見つめていると、鳴声は止み、天翔ることも止めた。

戻って、ヤマトヒメにそう報告した。

ヤマトヒメは、これを喜び、
「恐し、天照大御神(皇太神、大神)が入り、坐せば、鳥禽相悦び、草木共に相伴い、奉る。稲一本は千穂八百穂に茂れり」
と詔して、竹連吉比古などに命じ、初穂を抜穂に半分抜かせ、大税に苅らさせ、アマテラスの御前に懸け奉った。抜穂は細税と言い、大苅は太半と言い、御前に懸け奉った。よって、天都告刀に「千税八百税余り」と称する。

鶴の住処には八握穂社を造営し、祀った。現在、竹佐々夫江神社に合祀されている。

またヤマトヒメは、
「伊鈴の河の漑水道田には、苗草敷かずして、作り養え」
と詔った。さらに、
「我が朝御饌夕御饌の御田作る家田の堰の水の道の田には、田蛭穢しければ、我田には住ませぬ」
と宣った。

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