伊雑宮周辺、その上空
第11代垂仁天皇27年[戊午]秋9月、志摩国あたりから、鳥の鳴声が高く聞え、昼夜止まずけたたましかった。

そこで倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、
「これ、異し」
と言って、大若子命(おおわぐごのみこと、大幡主命)、と舎人の紀麻良を派遣して鳥の鳴く場所を見させた。

二人が行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂っていた。その稲を白い真名鶴が咥えて回り、つついては鳴き、これを見つめていると、鳴声が止んだ。

二人の使者は戻って来て、そのようにヤマトヒメに報告した。
ヤマトヒメは、
「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照大御神(皇太神、大神)に奉るものをこしらえようとする」
と詔して、物忌を始め、その稲を伊佐波登美神に抜かし、アマテラスの御前に懸久真に懸け奉り始めた。

その穂で大若子命の娘である乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。この稲の育った地は、千田と名付け、志摩国の伊雑の方上にある。

そこに伊佐波登美の神宮を造り、アマテラスの摂宮とした。現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)別宮・伊雑宮がこれである。

その鶴を名付けて大歳神という。同じ場所で祀る。またその神は、アマテラスの坐す朝熊の河後の葦原の中に、石に坐す。小朝熊山嶺に社を造り、その神を併せて祀り坐しめた。

現在の内宮摂社・朝熊神社の御祭神がオオトシノカミである謂れと思われる。

いわゆる「鶴の穂落とし」伝承の、第一である。

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