三重県志摩市
現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の整備が一段落したのか、倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、再び船に乗り、天照大御神(皇太神、大神)の御膳御贄処を定める旅に出た。

アマテラスの「食」の解決こそ、伊勢の神宮の根源なのかもしれない。

ヤマトヒメは志摩の国の国崎嶋に幸行し、
「朝御饌、夕御饌」
と詔して、湯貴潜女(ゆきのかづきめ)などを定め、還る時に神堺を定めた。戸嶋、志波崎、佐加太岐嶋を定め、伊波戸(いはと)に居て、朝御気・夕御気の場所を定めた。

ヤマトヒメがここに船を泊めると、鰭広鰭狭魚、貝つ物、奥つ藻、辺つ藻が寄って来て、海の潮は淡く和んだので、淡海浦と名付けた。

伊波戸に居た島の名を、戸嶋と名付け、刺す場所を柴前(しばさき)と名付けた。

その以西の海中に七つの島があり、以南は潮淡く甘く、その島を淡良伎の島と名付け、潮の淡く満ち溢れる浦の名を、伊気浦(いきのうら)と名付けた。

その場所に現れ、御饗を供した神を淡海子神(あはのみこのかみ)と名付けて社を定め、朝御饌・夕御饌の島を定めた。粟皇子神社である。ちなみに、粟皇子神社と思われる神社が後にも出てくる

還り幸行して船を泊めた場所を、津長原(つながはら)と名付け、津長社を定めた。現在の内宮摂社・津長神社と思われる。

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