琵琶湖の島に浮かぶ日本三大弁天の一つ、国宝本殿を有す古社
[住所]滋賀県長浜市早崎町1665
[電話]0749-72-2073
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は、滋賀県長浜市の琵琶湖に浮かぶ竹生島にある神社。竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)、竹生島明神とも。日本三大弁天の一社。
『延喜式神名帳』にある「都久夫須麻神社(近江国・浅井郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は、市杵島比売命(弁才天)、宇賀福神(うがふくじん)、浅井比売命(あざいひめのみこと、産土神)、龍神。
社伝では、第21代雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。
『近江国風土記』によれば、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという。
一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。
神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。
また、天平3年(731年)に聖武天皇が参拝し、社前に天忍穂耳命、大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。
『帝王編年記』天平神護元年(765年)によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられた。
『日本三代実録』元慶3年(879年)2月29日条には「筑夫嶋神社」の記載がある。
平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった。
現在も日本三大弁天(日本三大弁才天)の一つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。
慶長7年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい、現在の本殿(国宝)や宝厳寺の唐門が残っている。
明治に入り、大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、式内社名を称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れ、寺院と神社の両方が並存することとなった。
明治7年(1874年)に当社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。
以降、当社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも当社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下(重要文化財)で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
6月10日が三社祭(三社弁才天まつり)。日本三弁財天の厳島神社、江島神社の御霊代を頂き、各社よりの斎主および宝厳寺住職の奉仕を得て行われる神仏混淆の形態をもった祭典。
6月14日が竜神祭。現在では母なる琵琶湖の恩恵に感謝すると共に、その琵琶湖に育まれた魚にも同じく謝意をこめた放生会の儀もとり入れられている。翌6月15日が例大祭。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
平成27年(2015年)4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、被害に遭った一社。
【ご利益】
交通安全、開運厄除、慈愛・財施・安心、五穀豊穣、商売繁盛

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[電話]0749-72-2073
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は、滋賀県長浜市の琵琶湖に浮かぶ竹生島にある神社。竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)、竹生島明神とも。日本三大弁天の一社。
『延喜式神名帳』にある「都久夫須麻神社(近江国・浅井郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
御祭神は、市杵島比売命(弁才天)、宇賀福神(うがふくじん)、浅井比売命(あざいひめのみこと、産土神)、龍神。
社伝では、第21代雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。
『近江国風土記』によれば、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという。
一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。
神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。
また、天平3年(731年)に聖武天皇が参拝し、社前に天忍穂耳命、大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。
『帝王編年記』天平神護元年(765年)によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられた。
『日本三代実録』元慶3年(879年)2月29日条には「筑夫嶋神社」の記載がある。
平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった。
現在も日本三大弁天(日本三大弁才天)の一つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。
慶長7年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい、現在の本殿(国宝)や宝厳寺の唐門が残っている。
明治に入り、大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、式内社名を称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れ、寺院と神社の両方が並存することとなった。
明治7年(1874年)に当社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。
以降、当社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも当社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下(重要文化財)で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
6月10日が三社祭(三社弁才天まつり)。日本三弁財天の厳島神社、江島神社の御霊代を頂き、各社よりの斎主および宝厳寺住職の奉仕を得て行われる神仏混淆の形態をもった祭典。
6月14日が竜神祭。現在では母なる琵琶湖の恩恵に感謝すると共に、その琵琶湖に育まれた魚にも同じく謝意をこめた放生会の儀もとり入れられている。翌6月15日が例大祭。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
平成27年(2015年)4月ごろ、奈良・京都など世界遺産含む寺社に油のようなものがまかれていた被害が相次いだ事件で、被害に遭った一社。
【ご利益】
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