頼朝の臣下・土佐坊昌俊=金王丸の生誕由緒、三代家光と春日局も
[住所]東京都渋谷区渋谷3-5-12
[電話]03-3407-1811

金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)は、東京都渋谷区にある、全国にある八幡宮・八幡神社の一つで、八幡神を祀る神社。御祭神は応神天皇(第15代天皇、品陀和気命)単独で祀る。

古くは単に八幡宮または渋谷八幡宮とも。渋谷金王丸の名声により、現社号が定着した。江戸八所八幡宮の一社。近代社格では郷社。

第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092年)鎮座。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で、秩父別当武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(武甲山とも)に納め、八幡宮と崇め奉る。

武基の子武綱は、嫡子重家とともに後三年の役の源義家の軍において300騎余を従え一番に参向し、仙北金沢の柵を攻略。

その大功により名を河崎土佐守基家、武蔵谷盛庄を賜る。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護と認定、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請した。

重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇から渋谷の姓を賜り、当宮を中心に館を構え居城とした。

渋谷氏は代々当宮を氏族の鎮守と崇める。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されている。

渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められてる。

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三家重の子で、永治元年(1141年)8月15日に生まれる。

重家には子がなく夫婦で当宮に祈願を続けたところ、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて男子を授かった。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けた。

金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156年)で大功を立て、その名を轟かせた。続く平治の乱(1159年)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により最期を遂げた。

金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じた後、渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔う。

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当宮に参籠して平家追討の祈願した。壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう金王丸に命じる。

昌俊は断ることもできず、文治元年(1185年)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入り。

当宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められている。3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開される。

渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いており、例えば明治の元勲で、現在は東郷神社に祀られる東郷平八郎も渋谷氏子孫の一人。

江戸期、竹千代のちの徳川家光を三代将軍にと、家光の乳母である春日局と教育役の青山伯耆神忠俊が当宮に祈願し、それが成就したお礼として神門と社殿を寄進した。

豊栄稲荷神社が道路を隔てて隣接するが、もとは渋谷駅近くにあって渋谷氏によって創建されたと伝えられる。1961年(昭和36年)現在地に移された。

なお、当社は千代田稲荷神社などを兼務している。

【ご利益】
交通安全、子授け、出世(公式HP
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