園相神社の周辺
現在の内宮摂社である多岐原神社あたりから、倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)はさらに幸行して美しい地に至った。

ヤマトヒメが真奈胡神に、
「この国の名は何ぞ?」
と問うと、真奈胡神は、
「大河の滝原の国」
と答えた。その地で、宇陀以来の側近、宇太乃大称奈(うだのおおねな)に荒草を刈り取らせ、宮を造営した。

いわゆる元伊勢大河之滝原之国」、現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の別宮・瀧原宮である。

しかし、ここが天照大御神(皇太神、大神)の欲する地ではないと悟ったヤマトヒメは、また大河の南へ宮の場所を求めて幸行した。

すると、美しい野に到った。宮の場所を求めて侘しかったので、そこを和比野と名付けた。

現在、度会町に和井野として地名が残っている。

そこからさらに幸行すると、久求都彦(くくつひこ)が現れたので、ヤマトヒメが、
「汝が国の名は何ぞ?」
と問うと、久求都彦は、
「久求の小野」
と答えた。ヤマトヒメはこの宮の場所を久求小野(くくのをの)と名付け、久求社を定めた。内宮摂社に久具都比賣神社が伝わる。

その久求都彦が、
「佳き宮の場所があります」
と言うので、そこに幸行すると、園作神が現れ、御園地を進呈した。それを悦んだヤマトヒメは園相社を定めた。現在、内宮摂社の園相神社である。

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