狭田国生神社付近を流れる外城田川
第11代垂仁天皇25年[丙辰]春3月、倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、飯野高宮から遷幸して伊蘇宮に天照大御神(皇太神、大神)を坐さしめた。

いわゆる元伊勢伊蘓宮(伊蘇宮)」である。

この時、ヤマトヒメは大若子命(おおわぐごのみこと、大幡主命)に、
「汝がこの国の名は何ぞ?」
と問うと、大若子命は、
「百船(ももふね)度会国、玉綴(たまひろふ)伊蘇国」
と答え、御塩浜・林を定めた。この宮に坐して祭祀し、その水の在所を御井と名付けた。

ヤマトヒメは、
「南の方の山はまだ見ていないけど、佳き宮を建てられるところがありそう」
と言い、その場所を求めて大若子命を派遣した。

大若子命らを派遣し終わったヤマトヒメは、アマテラスを奉戴して小船に乗り、その船に様々な神財・忌楯桙を留め置き、小河を幸行した。

船の航行が遅れたので、駅使などが「御船うくる」と言った。そのため、そこを宇久留と名付けた。現在のどこに該当するかは不詳。

そこから幸行すると、速河彦(はやかわひこ)が現れ、ヤマトヒメは、
「汝が国の名は何ぞ?」
と問うと、速河彦は、
「畔広(あぜひろ)の狭田国」
と答え、佐佐上の神田を進呈した。ヤマトヒメはその地に速河狭田社を定めた。

現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)摂社である狭田国生神社である。

さらに幸行すると、高水神(高水上命(たかみなかみのみこと))が現れたので、ヤマトヒメは、
「汝が国の名は何ぞ?」
と問うと、高水上命は、
「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」
と答え、田上の御田を進呈した。ヤマトヒメはそこに坂手社を定めた。

現在の内宮摂社である坂手国生神社である。

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