元伊勢「阿佐加藤方片樋宮」の伝承が残る阿射加神社(松坂市小阿坂町)
場所を決めることのできない「草蔭阿野国」の記述から、また伊勢国の話に戻る。

倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、市師(一志)県造の祖の建呰古命(たけしこのみこと)に対して、
「汝が国の名は何ぞ?」
と問うと、建呰古命は、
「害行(あらひゆく)阿佐賀国」
と答え、神戸・神田を進呈した。

第11代垂仁天皇18年[己酉]、阿佐加の藤方片樋宮(ふぢかたかたひのみや)に遷坐し、4年間奉斎。

いわゆる元伊勢阿佐加藤方片樋宮」である。

この時、阿佐加の山に居座った荒ぶる神・伊波比戸は、100人いれば50人を殺し、40人いれば20人を殺した。そこでヤマトヒメは大若子命(おおわぐごのみこと、大幡主命)を使者として朝廷に派遣して奏上した。ヤマトヒメの父・垂仁天皇は派兵と平定、懐柔を決めた。

そこで、阿佐加の山の麓に社を造営し、伊波比戸を懐柔し、労い、祀った。

「祀る」のは死者に対してであるため、「懐柔し、労い」と、「祀った」の間には、話しの流れからして、「騙し討ちして、殺した」というのが入ってもおかしくはない。宇加乃日子の子らの説話に続くのもその方が理解しやすい。

祀られた伊波比戸は、「うれし」と言った(神託かもしれない)ので、その地が「宇礼志」と名付けられた。

そこに、阿佐加の加多なる多気連などの祖で、宇加乃日子の子にあたる、吉志比女と、吉彦の二人が現れたので、ヤマトヒメは
「汝らがあさる物は何ぞ?」
と問うと、二人は、
天照大御神(皇太神、大神)の御饗として、赤貝を探し奉ります」
と言った。ヤマトヒメは、彼らがアマテラスの奉斎について熟知していることに驚き、
「白すこと恐し」
と言い、受け取った赤貝をアマテラスに献じた。ヤマトヒメは何が恐ろしかったのか、伊波比戸の謀殺が、その近親者に露見したから?

そして、采女の忍比売が作った天の平瓮80枚を、伊波比戸に贈った。吉志比女は、地口・御田・麻園をヤマトヒメに進呈した。

ここにおいて、ようやく阿佐加の山とその周辺が平定された、ということか。

一書に曰く、伊波比戸については、そのためにヤマトヒメが伊勢国に入ることができなかったので、垂仁天皇が、
「大若子命の先祖天日別命が平らげた山だから、大若子命を派遣してその神を祀り、ヤマトヒメを伊勢に向かわせよ」
などと命じた話も伝わる。

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