倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと=第11代垂仁天皇。ヤマトヒメの父)の即位2年[癸巳]、伊賀国の敢都美恵宮(あえとみえのみや)に遷り、2年間奉斎。
いわゆる元伊勢「敢都美恵宮」である。
垂仁天皇4年[乙未]、ヤマトヒメは近江国の甲賀の日雲宮に遷り、4年間奉斎。
いわゆる元伊勢「甲可日雲宮」である。この時、近江国造は、地口・御田を進呈した。
さらに垂仁天皇8年[己亥]、同国の坂田宮に遷幸し、2年間奉斎。
いわゆる元伊勢「坂田宮」である。この時、坂田君などは、地口・御田を進呈した。
またヤマトヒメは、垂仁天皇10年[辛丑]、近江国の坂田宮から、美濃国の伊久良河宮に遷幸し、4年間奉斎。
いわゆる元伊勢「伊久良河宮」である。
次に、尾張国の中嶋宮に遷座し、ヤマトヒメは国寿きした。
いわゆる元伊勢「中島宮」である。
この時、美濃国造などは、舎人の市主、地口・御田を進呈し、御船一隻を贈った。
同じく美濃県主は、角鏑を作り、御船二隻を贈り、「お送りする船は堅牢で、神のご加護がありますように」と申し上げた。
また、采女の忍比売(おしひめ)、地口・御田を進呈した。忍比売の子が天の平瓮80枚を作って進呈した。
美濃国はわずか一カ所に滞在したものの、その続きの美濃国造などの説話が豊富であるのが特徴。
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目次:『倭姫命世記』目次
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いわゆる元伊勢「敢都美恵宮」である。
垂仁天皇4年[乙未]、ヤマトヒメは近江国の甲賀の日雲宮に遷り、4年間奉斎。
いわゆる元伊勢「甲可日雲宮」である。この時、近江国造は、地口・御田を進呈した。
さらに垂仁天皇8年[己亥]、同国の坂田宮に遷幸し、2年間奉斎。
いわゆる元伊勢「坂田宮」である。この時、坂田君などは、地口・御田を進呈した。
またヤマトヒメは、垂仁天皇10年[辛丑]、近江国の坂田宮から、美濃国の伊久良河宮に遷幸し、4年間奉斎。
いわゆる元伊勢「伊久良河宮」である。
次に、尾張国の中嶋宮に遷座し、ヤマトヒメは国寿きした。
いわゆる元伊勢「中島宮」である。
この時、美濃国造などは、舎人の市主、地口・御田を進呈し、御船一隻を贈った。
同じく美濃県主は、角鏑を作り、御船二隻を贈り、「お送りする船は堅牢で、神のご加護がありますように」と申し上げた。
また、采女の忍比売(おしひめ)、地口・御田を進呈した。忍比売の子が天の平瓮80枚を作って進呈した。
美濃国はわずか一カ所に滞在したものの、その続きの美濃国造などの説話が豊富であるのが特徴。
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