壱岐国二宮、神功皇后の三韓征伐、清正の奉納 半島と風に縁のある古社
[住所]長崎県壱岐市勝本町勝本浦554-2
[電話]0920-42-0914
聖母宮(しょうもぐう)は、長崎県壱岐市勝本町勝本浦にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「中津神社」(名神大社)、「手長比売神社」(小社)に比定される式内社の論社。
壱岐国二宮、壱岐国七社(壱岐七社)の一社。近代社格では郷社。
息長足姫尊と足仲彦尊と、上筒男尊・仲筒男尊・底筒男尊の住吉三神(住吉大神)を御祭神とする。天照大神を配祀する。
第14代仲哀天皇9年10月、神功皇后が三韓征伐の折、壱岐で風待ちをした時に行宮を建てたのが起源とされる。
この時、神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことから、この地を風本(かざもと)と名付けた。
同年12月、三韓から凱旋時に勝利を記念して、風本を勝本に改めた。その時に敵の首10万1500をこの地に埋めたという伝承が残る。
その後行宮は放置されたが、海より光るものが上がってくる事件が起き、その際に鏡を奉納し神功皇后を祀ったとされる。
当社の神域内に、三韓征伐の際の神功皇后の馬の蹄の跡が残っているとされる馬蹄石がある。ここは元寇の文永の役の元軍上陸地でもある。
奈良時代の養老元年(717年)、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられる。当宮ではこれをもって創建としている。
古来より国主の崇敬厚く、香椎宮との繋がりが深く、香椎宮(香椎大明神)を名乗っていた時期もあり、さらに地元が香椎村を名乗っていた時期もあった。
しかし当宮が香椎宮の分社というわけではない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正と鍋島直茂から正門が造営寄進された。神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたもの。朝鮮半島と風に縁のある神社である。
江戸時代前期、延宝4年(1676年)、橘三喜が当社を式内社「兵主神社」に査定し、現在の兵主神社が聖母神社とされたことがあった。3年後には両社もとに入れ替わっている。
当社の例祭(10月14日)は5日間にわたって行われ、市内最大の祭りとして知られる。中でも来年が豊作か大漁かを占う選択無形民俗文化財「壱岐の船競漕行事」は有名。
最終日の10月14日には、重要無形民俗文化財「壱岐神楽」の大神楽や氏子の仮装パレードも行われる。一般的には10月15日に行われる勝本港祭りも一体の祭として認識され、6日間とされる場合もある。
なお、所在地が長崎県で、神社名に「聖母」とあることからキリスト教と関係があると誤解を受けることがあるが無関係である。
当社は式内社「中津神社」の有力論社だが、他に勝本町北触に式内同名神社がある。
また、式内社「手長比売神社」の他の論社に、勝本町本宮西触の式内同名神社と、郷ノ浦町田中触の天手長比売神社(古社地)がある。
【ご利益】
戦勝、勝利の神、安産の神、海・風・開運・交通安全(公式HP)
【関連記事】
・名神大社とは? - 名神祭の対象となる神々、式内社の中でも特異、その細かな特徴は?
・壱岐七社とは? - 壱岐国の代表的式内社を七社巡る 神功皇后の伝承や桓武期の八幡勧請
・長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧
[電話]0920-42-0914
聖母宮(しょうもぐう)は、長崎県壱岐市勝本町勝本浦にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「中津神社」(名神大社)、「手長比売神社」(小社)に比定される式内社の論社。
壱岐国二宮、壱岐国七社(壱岐七社)の一社。近代社格では郷社。
息長足姫尊と足仲彦尊と、上筒男尊・仲筒男尊・底筒男尊の住吉三神(住吉大神)を御祭神とする。天照大神を配祀する。
第14代仲哀天皇9年10月、神功皇后が三韓征伐の折、壱岐で風待ちをした時に行宮を建てたのが起源とされる。
この時、神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことから、この地を風本(かざもと)と名付けた。
同年12月、三韓から凱旋時に勝利を記念して、風本を勝本に改めた。その時に敵の首10万1500をこの地に埋めたという伝承が残る。
その後行宮は放置されたが、海より光るものが上がってくる事件が起き、その際に鏡を奉納し神功皇后を祀ったとされる。
当社の神域内に、三韓征伐の際の神功皇后の馬の蹄の跡が残っているとされる馬蹄石がある。ここは元寇の文永の役の元軍上陸地でもある。
奈良時代の養老元年(717年)、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられる。当宮ではこれをもって創建としている。
古来より国主の崇敬厚く、香椎宮との繋がりが深く、香椎宮(香椎大明神)を名乗っていた時期もあり、さらに地元が香椎村を名乗っていた時期もあった。
しかし当宮が香椎宮の分社というわけではない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正と鍋島直茂から正門が造営寄進された。神社周囲の石垣も当時風待ち時に配下に積ませたもの。朝鮮半島と風に縁のある神社である。
江戸時代前期、延宝4年(1676年)、橘三喜が当社を式内社「兵主神社」に査定し、現在の兵主神社が聖母神社とされたことがあった。3年後には両社もとに入れ替わっている。
当社の例祭(10月14日)は5日間にわたって行われ、市内最大の祭りとして知られる。中でも来年が豊作か大漁かを占う選択無形民俗文化財「壱岐の船競漕行事」は有名。
最終日の10月14日には、重要無形民俗文化財「壱岐神楽」の大神楽や氏子の仮装パレードも行われる。一般的には10月15日に行われる勝本港祭りも一体の祭として認識され、6日間とされる場合もある。
なお、所在地が長崎県で、神社名に「聖母」とあることからキリスト教と関係があると誤解を受けることがあるが無関係である。
当社は式内社「中津神社」の有力論社だが、他に勝本町北触に式内同名神社がある。
また、式内社「手長比売神社」の他の論社に、勝本町本宮西触の式内同名神社と、郷ノ浦町田中触の天手長比売神社(古社地)がある。
【ご利益】
戦勝、勝利の神、安産の神、海・風・開運・交通安全(公式HP)
【関連記事】
・名神大社とは? - 名神祭の対象となる神々、式内社の中でも特異、その細かな特徴は?
・壱岐七社とは? - 壱岐国の代表的式内社を七社巡る 神功皇后の伝承や桓武期の八幡勧請
・長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧
コメント