和泉国四宮、熊野古道に遥拝所がある勅願社で、白河上皇の扁額も
[住所]大阪府岸和田市積川町350
[電話]072-479-0134
積川神社(つがわじんじゃ)は、大阪府岸和田市積川町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「積川神社五座」に比定される式内社(小社、鍬)。和泉国四宮で、和泉五社の一社。近代社格では郷社。勅願社。
御祭神は生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)。宮中神である座摩巫祭神五座。生井、栄井(福井)、津長井(綱長井)の三神は井泉の神。
阿須波神、波比岐神は大年神と天知迦流美豆比売の子で、家庭の神、足場の神とされる。この5柱は、『延喜式神名帳』宮中神祇官西院坐御巫等祭神23座の中の座摩巫祭神五座と同じ。
一説に、波比岐神は五十猛命(いたけるのみこと)、建速須佐之男命の子である大屋毘古神と同一視される場合がある。
和泉市の泉井上神社の境内にある和泉国総社である五社総社では、当社の御祭神として、彦火火出見尊(山幸彦)を祀っている。
第10代崇神天皇の御代に創建されたと伝わる。
社伝には、「白河上皇、熊野御幸のとき、八木郷額原に於て、本社を遥拝あらせられ、芝草を積みて、舞台となし、舞楽を奏せしめ給ひし時、上皇傍の鳥居に掲げたる扁額の筆蹟の拙きをみそなはせられ、親ら筆を執りて『正一位 積川大明神』の八字を大書して之に代へさせ給ひしといふ」とあるという。
平安時代後期の永暦元年(1160年)10月の後白河院による熊野御躰の勧請に際して、養和元年(1181年)に当社は今熊野社領諸国荘園28箇所の一つとして寄進された。
永万元年(1165年)の神祇官諸社年貢注文には、和泉五社の他の四社(一宮・大鳥大社、二宮・泉穴師神社、三宮・聖神社、五宮・日根神社)とともに都の神祇官に直属して、その御年貢進社とされ、泉州特産の櫛を納めていたことが記されている。
建保5年(1217年)の後鳥羽・女院両院の御幸記には、泉州路で種(積)川使を勤めた者についての記述があり、 熊野御幸の路次に奉幣使が立てられたことが示されている。
現在の本殿は、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じて大修理が行われ現在に至る。
寛永17年(1640年)、岡部宣勝が摂津国高槻藩より入封した際、和泉国岸和田藩濱村にあった一の鳥居を和泉国淀藩八木村額原に移動させる。
明治40年(1907年)11月9日、積川村にあった八坂神社、菅原神社、白鬚社の各村社が積川神社に合祀された。本殿は旧国宝、現在は国の重要文化財に指定されている。
遙拝所が大阪府岸和田市小松里町字北額(額町)の府道30号線(熊野古道)沿いにある。当社の氏地は牛滝川に沿って磯上町付近までに及び、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう、中間地点付近に遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である当社を遥拝する場所にもなった。上述の白河上皇が扁額を書いたのは寛治4年(1090年)のことで、現在掲げられているものはその模写である。
また、かつて岸和田浜に御旅所が設けられていたが、岸和田城下の建設に伴い、当地へ移されている。
【ご利益】
水の神、家庭の神、足場の神、旅行・交通安全など
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[電話]072-479-0134
積川神社(つがわじんじゃ)は、大阪府岸和田市積川町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「積川神社五座」に比定される式内社(小社、鍬)。和泉国四宮で、和泉五社の一社。近代社格では郷社。勅願社。
御祭神は生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)。宮中神である座摩巫祭神五座。生井、栄井(福井)、津長井(綱長井)の三神は井泉の神。
阿須波神、波比岐神は大年神と天知迦流美豆比売の子で、家庭の神、足場の神とされる。この5柱は、『延喜式神名帳』宮中神祇官西院坐御巫等祭神23座の中の座摩巫祭神五座と同じ。
一説に、波比岐神は五十猛命(いたけるのみこと)、建速須佐之男命の子である大屋毘古神と同一視される場合がある。
和泉市の泉井上神社の境内にある和泉国総社である五社総社では、当社の御祭神として、彦火火出見尊(山幸彦)を祀っている。
第10代崇神天皇の御代に創建されたと伝わる。
社伝には、「白河上皇、熊野御幸のとき、八木郷額原に於て、本社を遥拝あらせられ、芝草を積みて、舞台となし、舞楽を奏せしめ給ひし時、上皇傍の鳥居に掲げたる扁額の筆蹟の拙きをみそなはせられ、親ら筆を執りて『正一位 積川大明神』の八字を大書して之に代へさせ給ひしといふ」とあるという。
平安時代後期の永暦元年(1160年)10月の後白河院による熊野御躰の勧請に際して、養和元年(1181年)に当社は今熊野社領諸国荘園28箇所の一つとして寄進された。
永万元年(1165年)の神祇官諸社年貢注文には、和泉五社の他の四社(一宮・大鳥大社、二宮・泉穴師神社、三宮・聖神社、五宮・日根神社)とともに都の神祇官に直属して、その御年貢進社とされ、泉州特産の櫛を納めていたことが記されている。
建保5年(1217年)の後鳥羽・女院両院の御幸記には、泉州路で種(積)川使を勤めた者についての記述があり、 熊野御幸の路次に奉幣使が立てられたことが示されている。
現在の本殿は、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じて大修理が行われ現在に至る。
寛永17年(1640年)、岡部宣勝が摂津国高槻藩より入封した際、和泉国岸和田藩濱村にあった一の鳥居を和泉国淀藩八木村額原に移動させる。
明治40年(1907年)11月9日、積川村にあった八坂神社、菅原神社、白鬚社の各村社が積川神社に合祀された。本殿は旧国宝、現在は国の重要文化財に指定されている。
遙拝所が大阪府岸和田市小松里町字北額(額町)の府道30号線(熊野古道)沿いにある。当社の氏地は牛滝川に沿って磯上町付近までに及び、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう、中間地点付近に遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である当社を遥拝する場所にもなった。上述の白河上皇が扁額を書いたのは寛治4年(1090年)のことで、現在掲げられているものはその模写である。
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水の神、家庭の神、足場の神、旅行・交通安全など
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