信太の森付近の和泉国三宮、社殿は江戸初期の片桐且元による造営
[住所]大阪府和泉市王子町919
[電話]0725-41-1545

聖神社(ひじりじんじゃ)は、大阪府和泉市王子町にある神社。「信太大明神」「篠田社」「信太聖社」などとも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「聖神社」に比定される式内社(小社)。和泉国三宮で、和泉五社の一社。近代社格は府社

御祭神は聖大神(ひじりのおおかみ)。『古事記』に「聖神」と登場する大年神の御子神である。

一説には瓊々杵尊天照大神饒速日命木花開耶姫命磐長姫命の五柱が御祭神とも。現在は配祀神になっているという。

市内の泉井上神社の境内にある和泉国総社である五社総社では、当社の御祭神として、天瓊瓊杵尊を祀っている。

初代神武天皇の東遷の際に瓊々杵尊を祀ったとする伝承と、白鳳3年(675年)8月15日に天武天皇の勅願により渡来氏族の信太首(しのだのおびと)が聖大神を祀ったとする伝承がある。

貞観元年(859年)5月7日に官社に指定され、同年8月13日に従五位下から従四位下の神階を受ける(『三代実録』)。『延喜式』を経て、中世の『和泉国神名帳』では神階が「正一位」となっている。

永万元年(1165年)の神祇官諸社年貢注文には、和泉五社の他の四社(一宮・大鳥大社、二宮・泉穴師神社、四宮・積川神社、五宮・日根神社)とともに都の神祇官に直属するとある。

鎌倉時代には信太氏が代々神主職となっていたが、南北朝時代に南朝方についたために、その後信太氏は神主職の地位を失う。かわって延文5年(1360年)には和田蔵人が神主職についている。

南北朝時代より同じ和泉国の大鳥神社、泉穴師神社、積川神社、日根神社とともに「五社大明神」と呼ばれるようになる。和泉国の神社の3番目の地位を占めるが、「三宮」の記述は中世にはない。

天正3年(1575年)、織田信長に所領1100石を安堵されるが、同13年(1585年)の豊臣秀吉の根来攻めで兵火にあい、所領も没収された。

江戸時代の初期に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として各地の社寺を造営したが、当社も慶長9年(1604年)に造営されている。

現存する当時の社殿は本社本殿と末社三神社・滝神社・平岡神社の本殿で国の重要文化財及び大阪府の有形文化財に指定されている。

明治5年(1872年)に郷社に列格し、昭和18年(1943年)3月に府社に昇格。

例祭は5月10日。10月の体育の日の前々日(宵宮)・前日(本宮)・体育の日(後宮)の3日間、だんじりの曳行と宮入りがある。いわゆる和泉だんじり祭りの一つ。

泉大津市助松町から伸びる「中和泉街道」は「布引の道」とも呼ばれ、助松浜に上陸した信太大明神が、聖神社に向かう際に布を引いたことに由来する。

なお、「中和泉街道」の碑は、紀州街道との交差点に立っている。

いわゆる信太の森(信太森)で、安倍晴明の出生伝承に絡む。境内から鏡池方向に歩くと晴明の父である安倍保名と母である葛の葉が出会ったと言い伝えられている「ネズミ坂」がある。

当社の東方1.5キロほどに、やはり葛の葉の伝承がある信太森葛葉稲荷神社がある。

また、 当社の鳥居と狛犬は熊野街道(熊野古道)沿いにある。

【ご利益】
安産、子宝の神、長寿の守護神(境内案内板)
聖神社(和泉市) - 信太の森付近の和泉国三宮、社殿は江戸初期の片桐且元による造営
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