さて、倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)は天照大御神(皇太神、大神)を奉じて「宇多秋宮」より幸行して、佐々波多宮に坐した。
いわゆる元伊勢「佐々波多宮」である。
さらに崇神天皇64年[丁亥]、伊賀国の隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に遷幸し、2年間奉斎。いわゆる元伊勢「隠市守宮」である。
伊賀国は、天武天皇の時代、その庚辰歳7月に伊勢国の四郡を割いて成立したので、ヤマトヒメ巡幸時にはなかったが、場所としては今の伊賀国である、という注が、『倭姫命世記』に記載されている。
崇神天皇66年[己丑]、同国の穴穂宮(あなほのみや)に遷り、4年間奉斎。いわゆる元伊勢「穴穂宮」である。
その地において、伊賀国造が、箆山葛山戸(みふぢくろかづらやまのへ)と、地口・御田を進呈した。鮎取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌も供した。
ここにおいて、天皇の代が替わり、ヤマトヒメにとって、天皇が祖父・崇神天皇から父・垂仁天皇になる。
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いわゆる元伊勢「佐々波多宮」である。
さらに崇神天皇64年[丁亥]、伊賀国の隠市守宮(なばりのいちもりのみや)に遷幸し、2年間奉斎。いわゆる元伊勢「隠市守宮」である。
伊賀国は、天武天皇の時代、その庚辰歳7月に伊勢国の四郡を割いて成立したので、ヤマトヒメ巡幸時にはなかったが、場所としては今の伊賀国である、という注が、『倭姫命世記』に記載されている。
崇神天皇66年[己丑]、同国の穴穂宮(あなほのみや)に遷り、4年間奉斎。いわゆる元伊勢「穴穂宮」である。
その地において、伊賀国造が、箆山葛山戸(みふぢくろかづらやまのへ)と、地口・御田を進呈した。鮎取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌も供した。
ここにおいて、天皇の代が替わり、ヤマトヒメにとって、天皇が祖父・崇神天皇から父・垂仁天皇になる。
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