第10代崇神天皇39年[壬戌]、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)は「笠縫邑」より丹波国の吉佐宮(余社宮)に遷幸し、4年間奉斎した。
「笠縫邑」にあること、実に33年。しかしそれでも遷る決意をしたのは、神託があったからか。『倭姫命世記』には明記されていない。
丹波国の吉佐宮(余社宮)、いわゆる元伊勢「吉佐宮」である。ここからまた大和国に戻ることになる。この年に豊宇介神(とようけかみ)が天降って、天照大御神(皇太神、大神)に御饗を奉った。
崇神天皇43年[丙寅]、大和国の伊豆加志本宮(厳橿之本宮)に遷り、8年間奉斎。いわゆる元伊勢「伊豆加志本宮」である。
崇神天皇51年[甲戌]、紀伊国の奈久佐浜宮(名草浜宮)に遷り、3年間奉斎。いわゆる元伊勢「奈久佐浜宮」である。この時、紀国造は、舎人の紀麻呂、佳き地口・御田を進呈した。
崇神天皇54年[丁丑]、吉備国の名方浜宮に遷り、4年間奉斎。いわゆる元伊勢「名方浜宮」である。この時、吉備国造は、采女の吉備都比売、地口・御田を進呈した。
崇神天皇58年[辛巳]、大和国の弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、2年間奉斎。いわゆる元伊勢「弥和乃御室嶺上宮」である。
「弥和乃御室嶺上宮」までで、元伊勢「笠縫邑」への奉遷以来、実に52年。
この時、トヨスキイリビメは、「吾、日足りぬ」と言い、自身の体力の限界、あるいは寿命を悟り、姪の倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)に後事を託し、御杖代と定めた。
これよりヤマトヒメが、アマテラスを奉戴して行幸することになった。
その相殿神はアメノコヤネ、フトダマ。御戸開闢神は天手力男神、拷幡姫命。御門神は豊石窓命、櫛石窓命(とよいわまどのかみ、くしいわまどのかみ。いずれも天石門別神の別名)。並びに五伴緒(いつとものおのかみ)、が仕えた。
五伴緒は、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五柱。
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目次:『倭姫命世記』目次
次へ:『倭姫命世記』(5)
「笠縫邑」にあること、実に33年。しかしそれでも遷る決意をしたのは、神託があったからか。『倭姫命世記』には明記されていない。
丹波国の吉佐宮(余社宮)、いわゆる元伊勢「吉佐宮」である。ここからまた大和国に戻ることになる。この年に豊宇介神(とようけかみ)が天降って、天照大御神(皇太神、大神)に御饗を奉った。
崇神天皇43年[丙寅]、大和国の伊豆加志本宮(厳橿之本宮)に遷り、8年間奉斎。いわゆる元伊勢「伊豆加志本宮」である。
崇神天皇51年[甲戌]、紀伊国の奈久佐浜宮(名草浜宮)に遷り、3年間奉斎。いわゆる元伊勢「奈久佐浜宮」である。この時、紀国造は、舎人の紀麻呂、佳き地口・御田を進呈した。
崇神天皇54年[丁丑]、吉備国の名方浜宮に遷り、4年間奉斎。いわゆる元伊勢「名方浜宮」である。この時、吉備国造は、采女の吉備都比売、地口・御田を進呈した。
崇神天皇58年[辛巳]、大和国の弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、2年間奉斎。いわゆる元伊勢「弥和乃御室嶺上宮」である。
「弥和乃御室嶺上宮」までで、元伊勢「笠縫邑」への奉遷以来、実に52年。
この時、トヨスキイリビメは、「吾、日足りぬ」と言い、自身の体力の限界、あるいは寿命を悟り、姪の倭比売命(倭姫命、やまとひめのみこと)に後事を託し、御杖代と定めた。
これよりヤマトヒメが、アマテラスを奉戴して行幸することになった。
その相殿神はアメノコヤネ、フトダマ。御戸開闢神は天手力男神、拷幡姫命。御門神は豊石窓命、櫛石窓命(とよいわまどのかみ、くしいわまどのかみ。いずれも天石門別神の別名)。並びに五伴緒(いつとものおのかみ)、が仕えた。
五伴緒は、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五柱。
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