天地開闢のころ、初めて日が昇る時に、御饌都神(みけつかみ)と大日靈貴(おほひるめのむち、天照大御神の別名)は、契りを結んで、長く天下を照らし治めることを寿いだ。
あるいは月となり、日となり、永く落ちることなく、永遠に照らし続け、あるいは神となり皇となり、常に困窮することなかれ、と。
その光が国々を照らし始めてしばらく、高天原では、皇親神漏岐(すめむつかむろき)と神漏美命(かむろみのみこと)の二柱を中心に、八百万の神たちを集合させ、神議した。
そこで、天照大御神(皇太神、大神、あまてらすおおみかみ)は「大葦原の千五百秋の端穂国は、吾が子孫の王たるべき国なり。安国と平らけく、我が皇御孫尊(すめみまのみこと)の天降りて知ろしめせ」と決した。
国中にいる荒振る神たちを祓い、平らげることが必要になり、諸神は「天穂日命(あめのほひのみこと)を派遣しよう」と提案。アメノホヒは天降ったが、この神はその後報告することがなかった。
そこで、天穂日命の子健三熊命(たけみくまのみことも)を遣わしたが、やはり父同様、報告を寄こすことがなかった。次いで、天若彦(あめのわかひこ)を派遣し、これも報告を寄こさなかったので、禍によって、たちどころに身を滅ぼした。
そこで神議を重ね、経津主命(ふつぬしのみこと)と健雷命(たけみかづちのみこと)の二神が天降った。二神は、大己貴神(おほなむちのかみ)とその子である事代主神(ことしろぬしのかみ)と折衝し、オオクニヌシが国造りの時に身につけた広矛を借り受け、国受けを進めた。
その中に、承諾しない、騒いだ神、磐根(いはね)や樹立(きねたち)、草の片葉(かきは)がいたものの、ようやくこれらの神々も語らなくなったので、二柱は、「葦原の中つ国は皆すでに祓い、平らげ、定め終わった」と復命した。
そこでアマテラスは、八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神財(みたから)を皇孫に授けて、「これらを永く天の御印とし、特にこの宝鏡はこれを見ること私を見るようにし、ともに同床共殿する斎鏡として、その栄える様はまさに天地とともに永遠に極まりなく続くべし」と宣言した。
皇御孫命である天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)に付き従った、天児屋命(あめのこやねのみこと)は「先々異常なし、ことごとく清浄」と報告した。
また、太玉命(あめのふとだまのみこと)は幣を捧げ、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)は太玉串を取り、こうして32神が相前後して進んで、天の関を開き、雲路を分けて道を祓い、皇御孫命は、天の八重雲をかき分けて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に、天降った。
それから天下を治めること21万8543年。この時、天と地はいまだ遠からずあり、天つ柱を立てて天上とつなげていた。
目次:『倭姫命世記』目次
次へ:『倭姫命世記』(2)
あるいは月となり、日となり、永く落ちることなく、永遠に照らし続け、あるいは神となり皇となり、常に困窮することなかれ、と。
その光が国々を照らし始めてしばらく、高天原では、皇親神漏岐(すめむつかむろき)と神漏美命(かむろみのみこと)の二柱を中心に、八百万の神たちを集合させ、神議した。
そこで、天照大御神(皇太神、大神、あまてらすおおみかみ)は「大葦原の千五百秋の端穂国は、吾が子孫の王たるべき国なり。安国と平らけく、我が皇御孫尊(すめみまのみこと)の天降りて知ろしめせ」と決した。
国中にいる荒振る神たちを祓い、平らげることが必要になり、諸神は「天穂日命(あめのほひのみこと)を派遣しよう」と提案。アメノホヒは天降ったが、この神はその後報告することがなかった。
そこで、天穂日命の子健三熊命(たけみくまのみことも)を遣わしたが、やはり父同様、報告を寄こすことがなかった。次いで、天若彦(あめのわかひこ)を派遣し、これも報告を寄こさなかったので、禍によって、たちどころに身を滅ぼした。
そこで神議を重ね、経津主命(ふつぬしのみこと)と健雷命(たけみかづちのみこと)の二神が天降った。二神は、大己貴神(おほなむちのかみ)とその子である事代主神(ことしろぬしのかみ)と折衝し、オオクニヌシが国造りの時に身につけた広矛を借り受け、国受けを進めた。
その中に、承諾しない、騒いだ神、磐根(いはね)や樹立(きねたち)、草の片葉(かきは)がいたものの、ようやくこれらの神々も語らなくなったので、二柱は、「葦原の中つ国は皆すでに祓い、平らげ、定め終わった」と復命した。
そこでアマテラスは、八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神財(みたから)を皇孫に授けて、「これらを永く天の御印とし、特にこの宝鏡はこれを見ること私を見るようにし、ともに同床共殿する斎鏡として、その栄える様はまさに天地とともに永遠に極まりなく続くべし」と宣言した。
皇御孫命である天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)に付き従った、天児屋命(あめのこやねのみこと)は「先々異常なし、ことごとく清浄」と報告した。
また、太玉命(あめのふとだまのみこと)は幣を捧げ、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)は太玉串を取り、こうして32神が相前後して進んで、天の関を開き、雲路を分けて道を祓い、皇御孫命は、天の八重雲をかき分けて、筑紫の日向の高千穂の串触の峯に、天降った。
それから天下を治めること21万8543年。この時、天と地はいまだ遠からずあり、天つ柱を立てて天上とつなげていた。
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