いそのみや - 元伊勢の第二十二、内宮摂末社の由来譚が多くなる
元伊勢「伊蘓宮」伝承地の一つである磯神社(伊勢市磯町字権現前)
元伊勢「伊蘓宮」(いそのみや、伊蘇宮)は、『倭姫命世記』に記載される元伊勢の第二十二である。

『皇太神宮儀式帳』には「玉岐波流礒宮」とあり、『日本書紀』の「磯宮」に相当するとも考えられている。所在地は伊勢国。現在の三重県伊勢市・多気町にあたる。

倭姫命が「佐佐牟江宮」より遷り、天照大神を奉斎した。天照大神安住の地、現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)を求める長い旅の途上。
二十五年[丙辰]春三月、飯野高宮より遷幸して 伊蘇宮に坐す。この時、大若子命に「汝がこの国の名は何そ」と問ふと、「百船(ももふね)度会国、玉綴(たまひろふ)伊蘇国」と申上げて、御塩浜・林を定めて奉った。

この宮に坐して供奉り、御水の在所は御井となづけた。

倭姫命は、「南の山は未だ見ざれど、吉き宮処の有るべく見ゆ」と詔して、宮処を求めに大若子命を遣した。

倭姫命は、皇太神を奉戴して小船に乗り、その船に雑々の神財・忌楯桙を留め置き、小河へと幸行された。

御船は後れて下がり、駅使等が「御船うくる」と申上げたので、そこを宇久留となづけた。

そこから幸行すると、速河彦(はやかはひこ)が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広(あぜひろ)の狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。

その地に速河狭田社を定められた。

さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」と申上げ、田上の御田を進った。

そこに坂手社を定められた。

さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。

そこから幸行した時、御笠服(みかさき)を給ったので、そこを加佐伎といふ。

大川の瀬を渡らむとすると、鹿の完(ししむら)が流れ寄ったので、「是、悪し」と詔して渡らず、その瀬を相鹿瀬(逢鹿瀬)となづけた。

そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神(まなごのかみ)が現はれ参上して、御船をお渡しした。

その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。(『倭姫命世記』 口語訳
「宇久留」は今に伝わらないか。「速河狭田社」「坂手社」は現在の狭田国生神社坂手国生神社であり、それぞれ内宮摂社の一社。

倭姫命は坂手大神とは縁が深く、尾張国「中島宮」の際にも祀っている。中島宮の候補には、愛知県一宮市佐千原の坂手神社などがある。

寒河(寒川)は内宮末社の牟弥乃神社に伝承が残り、御船神社は牟弥乃神社が同座する内宮摂社として今に伝わる。

「加佐伎」は多気町に笠木がある。「相鹿瀬」は多気町に今も地名を残す。真奈胡神ともやはり縁が深く、伊勢国「飯野高宮」付近でも「真名胡」に遭遇している。

「御瀬社」は現在、内宮摂社の多岐原神社となっている。神社・地名譚の中でも、内宮摂末社の由来が明らかに多くなっているのが特徴。

元伊勢「伊蘓宮」の伝承地・候補地は以下の通り。

磯神社

磯神社 - 三重県伊勢市、元伊勢「伊蘓宮」伝承地、伊蘇郷磯村の産土神として尊崇受ける
[所在地]伊勢市磯町字権現前
[社格等]式内社 - 郷社
[ご利益]開運、厄除け、五穀豊穣、安産、家内安全

相鹿上神社

相鹿上神社 - 三重県多気町、中臣氏同属の大鹿氏ゆかり、元伊勢「伊蘓宮」伝承地
[所在地]多気郡多気町相可字磯部寺
[社格等]式内社 - 郷社
[ご利益]当地開拓の神で氏神、勉学・受験

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