応仁の乱の頃に現在地に遷座、元伊勢の伝承地
[住所]三重県松阪市小阿坂町120
[電話]0598-58-1291

阿射加神社(あざかじんじゃ)は、三重県松阪市小阿坂町にある神社。近世まで「龍天明神」と俗称された。

『延喜式神名帳』にある「阿射加神社三座(伊勢国・壱志郡)」に比定される式内社(名神大社)の論社。近代社格では村社。

式内「阿射加神社」の論社として他に同市大阿坂町にある同名神社がある。両社は1キロ程度しか離れておらず、由緒も多くを共有している。

当社は倭姫命が4年滞在した、『皇太神宮儀式帳』にある「壱志藤方片樋宮」、『倭姫命世記』にある「阿佐加藤方片樋宮」の伝承地、元伊勢の一つ。

『皇太神宮儀式帳』に、倭姫命が「藤方片樋宮」において天照大神を奉斎していた時に、第11代垂仁天皇の使者である阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとある。

また、『倭姫命世記』には、「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がいて通行の邪魔をするので、その心を和ませるために山上に神社を造営。

伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)祀官度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせた、とある。外宮摂社大間国生神社の御祭神でもある。

一書に、「阿佐賀山」に荒神(あらぶるかみ)がいて、倭姫命の「五十鈴川上之宮」、つまり現在の伊勢神宮の皇大神宮(内宮)への巡行を拒んだ。

そこで、かつて阿坂国(当地一帯の古称)を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命に祀らせたとある。

この「悪神」や「伊豆速布留神」や「荒神(荒悪神)」が当社の御祭神で、本来は当地一帯を領有する神だったとみられる。

出口延経が、当地は『古事記』に猿田彦神が溺れたと伝える伊勢国阿邪訶の地であり、その時に化生した猿田彦神の三つの御魂である底度久御魂都夫多都御魂阿和佐久御魂が当社御祭神の三座であると唱えた。

当社の御祭神は現在、猿田彦大神、伊豆速布留神、竜天大神の三柱。

市内大阿坂町にある同名神社とは、猿田彦大神、伊豆速布留神は同じであるが、三柱目が違い、大阿坂町の方では、底度久神(底どく御魂)になっている。

社伝に、永禄年間(1558年-1570年)に兵火に罹るのを怖れ、阿坂山山上から遷座したと伝える。応仁の乱(1467年-1477年)の時に北畠氏によって現在地に遷座された、との説も。

また、『古事記伝』には、円座薬師という小阿坂にあった寺の縁起に、当社は行基が勧請したとの伝えがあったことを記している。

明治41年(1908年)2月20日に村社に列し、戦後は神社本庁に属した。

摂社大若子神社の祭祀で、毎年1月14日に行われる御火試(おひだめし)、粥試(かゆだめし)神事がある。

御火試神事は、囲炉裏で焼いた樫の木の先端を月数を書いた板に押しつけ、その灰の色で各月の天候を占うもの。

粥試神事は小豆粥に竹の管を入れ、管に入った米と小豆の量で作柄の豊凶を占う。市の無形民俗文化財に指定された。

やはり1月14日には羯鼓(かんこ)踊りが行われる。元来は雨乞いのために初夏に踊られていたと思われるが、後に豊作を迎えた年の秋に踊られるようになった。

現在では、大ドンドを焚きながら、勢子入りから始まる唄にのって、子ども達が神への感謝と当年の豊作を祈願する踊りとなっている。

所役は大羯鼓、小羯鼓、貝吹き、采持ちからなり、赤采を採る采持ち持ちが踊りを先導する。県の無形民俗文化財に指定された。

なお、「阿佐加藤方片樋宮」の候補地は他に、市内大阿坂町にある同名神社や、津市の加良比乃神社(藤方)、雲出神社(雲出本郷町)がある。

【ご利益】
方位除け、交通安全、五穀豊穣、財運、家内安全
阿射加神社(松坂市小阿坂町) - 応仁の乱の頃に現在地に遷座、元伊勢の伝承地
【関連記事】
名神大社とは? - 名神祭の対象となる神々、式内社の中でも特異、その細かな特徴は?
元伊勢「阿佐加藤方片樋宮」(あさかのふじかたのかたひのみや) - 戦闘も、父娘の絆
『倭姫命世記』(9) - ヤマトヒメの苦難、阿佐加の山の神・伊波比戸への対応
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧