三重県亀山市、式内社で元伊勢「奈其波志忍山宮」の伝承地
[住所]三重県亀山市布気町1663
[電話]0595-82-2502

布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)は、三重県亀山市布気町にある神社。

『延喜式神名帳』にある「布氣神社(伊勢国・鈴鹿郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

第11代垂仁天皇18年の創祀。鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。御祭神は天照大御神豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ、祓戸大神の一柱)。

社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の7ヶ村を神戸郷と言った。

『九々五集』巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とある。また同書の巻第九の巻末「舘殿御由来」には下記とある。
抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり
『皇太神宮儀式帳』に「河曲鈴鹿小山宮」、『倭姫命世記』に「奈其波志忍山宮」とある、天照大神を奉斎した倭姫命が滞在した元伊勢の伝承地の一つ。

古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあったが、文明年間(1469年-1486年)の兵乱によって衰退し、後、現社地の皇館の森に移ったという。

中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を斎行。文永元年(1264年)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。

享保8年(1723年)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。松尾芭蕉の親友である道心坊能古の能古茶屋がこの辺りにあり、芭蕉が逗留中「枯枝に­とまりたるや秋の暮」という句を残しているという。

明治4年(1871年)7月、布気神社・皇館太神社として村社に列した。明治39年(1906年)12月、神饌幣畠料供進社に指定された。

明治40年(1907年)、村社皇館太神社と単称、明治41年(1908年)6月に近郷の小社・小詞を合祀し、現社号に改称した。

現在までに、宇迦之御魂神火之迦具土神・火之夜芸速男神大山津見神大名牟遅命・宇都志国玉神菅原道真木花佐久夜比売命天宇受売命五男三女神帶中日子命広国押武金日命建速須佐之男命猿田彦神品陀和気命稲田比売命高御産巣日神手力雄命、彦狹知命(ひこさしりのみこと、フトダマ率いる五柱の一柱で、紀伊忌部氏の祖)、手置帆負命(たおきほおいのみこと、同じく讃岐忌部氏の祖)が合祀されている。

なお、元伊勢「奈其波志忍山宮」の候補地には他に、同市内野村にある忍山神社がある。

また、式内社「布氣神社」についても、忍山神社を比定する説があり、当社を式内社「忍山神社」に比定する場合もある。

【ご利益】
開運、厄除け、五穀豊穣、財運
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