出雲民族が開拓した伊賀の地に鎮座する、出雲系の神で元伊勢の一つ
[住所]三重県伊賀市柘植町2280
[電話]0595-45-3636
都美恵神社(つみえじんじゃ)は、三重県伊賀市拓植町にある神社。『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 伊賀国 阿拝郡「穴石神社」に比定される式内社(小社)の論社。
起源は古く2、3世紀以前ではないかと思われるが不詳。出雲民族がこの柘植へ移住してきたことは『伊勢風土記』逸文にも下記のようにある。
ともかく、当社はもとの名を穴石(穴師)神社、穴石大明神、石上明神ともいって、上柘植村の産土神として祀られていた。
寛永21年(1644年)、大洪水のため、社地欠損甚だしく、正保3年(1646年)、今の地に移された。その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌年八月二十七日)も町文化財として残されている。
当社の御祭神は栲幡千々比売命を主祭神とし、布都御魂命、布津主命を配祀し、33柱を合祀しているが、一説に主祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治42年4月)後、大正11年7月に改称されたもので、『倭姫命世記』にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの。
つまり、当社こそ元伊勢「敢都美恵宮」を主張するものであり、都美恵は柘植の古語であり、伊勢の神宮(伊勢神宮)ゆかりの地だとした。
天照大神を奉斎した倭姫命が2年間滞在した、元伊勢「敢都美恵宮」については、前述の敢國神社も候補地。
当社では社号を改めるに「敢都美恵宮」から敢國神社をも連想させる「敢」を取っているあたり、やはり前述の両社間にあったかもしれない抗争の傍証となりうるか。
元伊勢「敢都美恵宮」であれば、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の元宮という可能性がある。
なお、式内社「穴石神社」の論社は他に、市内石川に式内同名神社がある。
【ご利益】
当地の産土神、安産、子孫繁栄
【関連記事】
・元伊勢「敢都美恵宮」(あえとみえのみや) - 伊賀国の三つ目及び最後の地 - 元伊勢
・『倭姫命世記』(7) - ヤマトヒメ、伊賀国から近江国、美濃国を経て、尾張国へ
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
[電話]0595-45-3636
都美恵神社(つみえじんじゃ)は、三重県伊賀市拓植町にある神社。『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 伊賀国 阿拝郡「穴石神社」に比定される式内社(小社)の論社。
起源は古く2、3世紀以前ではないかと思われるが不詳。出雲民族がこの柘植へ移住してきたことは『伊勢風土記』逸文にも下記のようにある。
伊賀の事志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり霊山の中腹穴師谷に祀られていた神であることは間違いない。また、その続きに登場し、当社と戦っていた相手「阿倍志彦の神」を、伊賀国一宮である敢國神社に比定する指摘もある。
ともかく、当社はもとの名を穴石(穴師)神社、穴石大明神、石上明神ともいって、上柘植村の産土神として祀られていた。
寛永21年(1644年)、大洪水のため、社地欠損甚だしく、正保3年(1646年)、今の地に移された。その時の社殿造営の棟札(式内社 正保三戌年八月二十七日)も町文化財として残されている。
当社の御祭神は栲幡千々比売命を主祭神とし、布都御魂命、布津主命を配祀し、33柱を合祀しているが、一説に主祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。
都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治42年4月)後、大正11年7月に改称されたもので、『倭姫命世記』にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもの。
つまり、当社こそ元伊勢「敢都美恵宮」を主張するものであり、都美恵は柘植の古語であり、伊勢の神宮(伊勢神宮)ゆかりの地だとした。
天照大神を奉斎した倭姫命が2年間滞在した、元伊勢「敢都美恵宮」については、前述の敢國神社も候補地。
当社では社号を改めるに「敢都美恵宮」から敢國神社をも連想させる「敢」を取っているあたり、やはり前述の両社間にあったかもしれない抗争の傍証となりうるか。
元伊勢「敢都美恵宮」であれば、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の元宮という可能性がある。
なお、式内社「穴石神社」の論社は他に、市内石川に式内同名神社がある。
【ご利益】
当地の産土神、安産、子孫繁栄
【関連記事】
・元伊勢「敢都美恵宮」(あえとみえのみや) - 伊賀国の三つ目及び最後の地 - 元伊勢
・『倭姫命世記』(7) - ヤマトヒメ、伊賀国から近江国、美濃国を経て、尾張国へ
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
コメント