「ISOの神」は伊予開拓伝承を残す、大規模な例大祭で知られる古社
[住所]愛媛県西条市中野甲1649
[電話]0897-55-2142

伊曽乃神社(いそのじんじゃ)は、愛媛県西条市中野にある神社。「磯野」と表記されることもある。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 伊予国 宇摩郡「伊曽乃神社」に比定される式内社(名神大社)。ただし、『延喜式』臨時祭「名神祭」には掲載されていない。

近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社

御祭神は、天照大神の荒魂と武国凝別命(たけくにこりわけのみこと、第12代景行天皇皇子)。ただし、国幣中社昇格の際には「伊曽乃神(いそののかみ)」とされた。

社伝によれば、第13代成務天皇7年、伊予御村別の祖・武国凝別命が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。

その際、武国凝別命は、天照大神のご分霊を奉じて伊勢国から伊予に渡り、今の同市朔日市の御船森に着いた(御船森というところが御舟川沿いにある)。

本社の御祭神は、はじめは一座で伊曽乃神といった。社伝および旧記によると、はじめの一座は天照大神であって、その荒魂を奉斉する。

のちに武国凝別命、一座を加えて二座となった。主神・天照大神は本殿内陣の正中に奉斎され、脇殿神・武国凝別命はその左に祀られている。

孝徳天皇の大化年間(645年-650年)にこの地方の郡名が神野と命名されたのは当時、おそらく当社がすでに栄えていたことに由来するとの指摘がある。

往古、神社に奉献した封戸を神封とし、これに属する民戸を神戸(かんべ)と称した。天平神護元年(765年)神戸10烟を充てられ、翌天平神護2年(766年)従四位下を授かるとともに神戸5烟を加えられた。

これが神戸郷のはじめであり、その後、戸口が次第に増えた)。永治元年(1141年)正一位に叙され、崇徳天皇より勅額を賜る。

天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐により社殿・社宝等兵火にかかって一切焼失し、難を避けて土佐国へ遷座。慶長11年(1606年)旧地に復座する。江戸時代には西条藩の祈願所六社の一つとされた。

明治期、御祭神不詳として官社の認可を受けられず、伊予国第一県社とされる。昭和15年(1940年)長年の昇格運動が実り、国幣中社に昇格した。

近年は「ISOの神社」の語呂合わせからISO取得・永続の祈願を行っている。

地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。

しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った。しかも石鎚山上は女人禁制のため、同行は許されない。

「修行を終えれば結婚するのでそれまで待ってほしい。山頂から三つの大石を投げるので、真ん中の石が落ちた所に館を造って待つように」と言い残して山へ登った。

間もなく、石鎚山から三つの石が飛んできたので、真ん中の石が落ちたところに営まれたのが伊曽乃神社だという。現在、伊曽乃神社の一の鳥居の脇には、石鎚の神の投げ石と伝えられる石が残っている。

昭和57年(1982年)には現皇太子である徳仁親王が参拝した。重要文化財として、「与州新居系図 凝然筆」がある。

例大祭は毎年10月15、16日。楽車(舁き山車)77台、御輿屋台(曳き山の太鼓台。氏子の奉納屋台で神輿とは違う)4台が奉納され、一つの神社に奉納される山車の数としては全国最多ともいわれる。

なお、伊予市には当社と同音異字の伊曽能神社があり、伊曽能神社が当社とよく混同されるものの、別の神社である。

【ご利益】
安産、厄除け、交通安全、ISO取得(公式HP
伊曽乃神社 - 「ISOの神」は伊予開拓伝承を残す、大規模な例大祭で知られる古社
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『日本の神社 38号 (伊曽乃神社・石鎚神社) [分冊百科]』 - 愛媛・西条、古事記ゆかりの古社
愛媛県の別表神社 | 別表神社とは? - 神社本庁に属する神社の現代版官国幣社
愛媛県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、愛媛県に鎮座している神社の一覧
伊曽乃神社の御朱印