隠岐島を脱出した後醍醐天皇を迎え倒幕に参加した名和長年を祀る
[住所]鳥取県西伯郡大山町名和556
[電話]0859-54-2260

名和神社(なわじんじゃ)は、鳥取県西伯郡大山町にある神社。南朝方の武将・名和長年を祀る。創始は江戸時代前半。近代社格は別格官幣社建武中興十五社の一社。現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

名和長年(なわ ながとし 生年不詳-延元元年/建武3年6月30日(1336年8月7日))は、伯耆守であったことから、後醍醐天皇の元で重用された、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。

特に、元弘元年(1331年)の元弘の乱で、鎌倉幕府の討幕計画が露見し捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、同3年(正慶2年、1333年)に島を脱出すると、これを船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった(船上山の戦い)功で知られる。

当社では名和長年を主祭神とし、その子孫、一族四十二柱を合祀する。

承応・明暦の頃(1652-1658年)、長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる。延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座し、山王権現を末社として「氏殿権現」と称した。

明治初めの関係者の説明によると、神社の再興を志したのは光仲の子綱清で、毎年わずかな祭祀料をあてがった。くだって幕末の藩主池田慶徳が従来の小祠のそばに碑を立て、祀主を任じようと考えたが、果たせぬうちに廃藩になった。明治7年(1873年)に県社に列し、「氏殿神社」と改称した。

明治9年(1876年)6月22日、鳥取県が、名和氏の功績は楠木氏に比肩する、として、国幣社格にしてほしいと内務省に伺を出した。10月には氏殿神社の祀官糟谷末枝が教部省に、11月には池田慶徳が宮内省に、それぞれ別格官幣社にしてほしいと請願。12月16日には島根県が二人の請願を後押しする伺を教部省に出した。

翌明治10年(1876年)の夏、池田慶徳は島根県庁から鳥取に至る道筋で氏殿神社に参拝し、その衰退を目撃。慶徳はまもなく亡くなり、11月28日に子の輝知が父の遺志を継いで社格を進めることを請願。このとき既に内務省も別格官幣社に列する方針を固めており、輝知の請願を受けて太政官にその実施を促した。

こうして明治11年(1878年)1月10日、氏殿神社の社号を現社号に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた。

現在では、山陰有数の“花の名所”でも有名な場所で、特に春の桜、しだれ桜などで知られている。

【ご利益】
武運長久、勝負運、厄除け
名和神社 - 隠岐島を脱出した後醍醐天皇を迎え倒幕に参加した名和長年を祀る
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