渡守神社と鞆祇園宮を合祀、式内社名に改称した「鞆の浦の祇園」さん
[住所]広島県福山市鞆町後地1225
[電話]084-982-2050
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、広島県福山市にある神社。「鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」「鞆の浦の祇園」「祇園さん」など。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 沼隈郡「沼名前神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神は旧渡守神社御祭神の大綿津見命(おおわたつみのみこと)、相殿神は旧鞆祇園宮御祭神の須佐之男命(すさのおのみこと)。
明治になり、渡守神社(わたすじんじゃ)、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式神名帳』の記載にならって改称した。
同じ市内には当社御祭神の娘・豊玉姫命を祀る天別豊姫神社が、庄原市にはその夫(当社御祭神の婿)・彦火火出見命を祀る蘇羅比古神社がある。
渡守神社は社伝によれば、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという。
帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう。
近世には、猿田彦神、船魂命(船玉命)を御祭神としていたという。元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596-1615年)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる。
明暦年間(1655-1658年)には、藩主・水野勝貞によって社殿が再建された。
鞆祇園宮の創建は不詳。天長年間(824年-834年)の創建とも、保元年間(1156年-1159年)の勧請によるとも伝えられる。
もとは鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したという。
この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある。当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた。
現在、当社として、素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」に加盟している。
社殿前に立つ石燈籠は、江戸時代の慶安4年(1651年)に福山藩三代藩主水野勝貞から寄進されたもので、総高3.24メートルという大型のもの。
近世初頭の社前献灯としては標本的な燈籠であるとして、市の重要文化財に指定されている。
他に境内には桃山時代の能舞台がある。もとは伏見城内にあって豊臣秀吉も愛用したという組立式の舞台。
福山藩初代藩主・水野勝成が現在の福山城伏見櫓等とともに二代将軍・徳川秀忠から拝領し、福山城に移設。3代勝貞が寄進し、元文3年(1738年)に固定式に改められた。国の重要文化財。
2月第2日曜に行われるお弓神事や、7月第2日曜前夜に行われるお手火神事(おてびしんじ)は、それぞれ市の無形民俗文化財に指定されている。
【ご利益】
海上安全、漁業繁栄、家内安全、病気平癒、学業成就、安産など(公式HP)
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『延喜式』巻9・10神名帳の山陽道神 備後国 沼隈郡「沼名前神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神は旧渡守神社御祭神の大綿津見命(おおわたつみのみこと)、相殿神は旧鞆祇園宮御祭神の須佐之男命(すさのおのみこと)。
明治になり、渡守神社(わたすじんじゃ)、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式神名帳』の記載にならって改称した。
同じ市内には当社御祭神の娘・豊玉姫命を祀る天別豊姫神社が、庄原市にはその夫(当社御祭神の婿)・彦火火出見命を祀る蘇羅比古神社がある。
渡守神社は社伝によれば、第14代仲哀天皇2年に神功皇后が西国に向かった際、当地の霊石に綿津見命を祀り海路安全を祈ったことに始まるという。
帰途に際し、綿津見命の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも。鞆は弓具の1つ)」を奉じたことから、「鞆」の地名が起こったともいう。
近世には、猿田彦神、船魂命(船玉命)を御祭神としていたという。元は後地平村もしくは鞆の関町にあったともいわれ、慶長年間(1596-1615年)に祇園社の境内社として現在地に遷座したと伝えられる。
明暦年間(1655-1658年)には、藩主・水野勝貞によって社殿が再建された。
鞆祇園宮の創建は不詳。天長年間(824年-834年)の創建とも、保元年間(1156年-1159年)の勧請によるとも伝えられる。
もとは鞆の関町に鎮座していたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したという。
この鞆祇園宮を『備後国風土記』逸文に見える「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」にあてる説もある。当社は鞆の産土神として崇敬され、福山藩主からも多くの寄進を受け、社地も有していた。
現在、当社として、素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」に加盟している。
社殿前に立つ石燈籠は、江戸時代の慶安4年(1651年)に福山藩三代藩主水野勝貞から寄進されたもので、総高3.24メートルという大型のもの。
近世初頭の社前献灯としては標本的な燈籠であるとして、市の重要文化財に指定されている。
他に境内には桃山時代の能舞台がある。もとは伏見城内にあって豊臣秀吉も愛用したという組立式の舞台。
福山藩初代藩主・水野勝成が現在の福山城伏見櫓等とともに二代将軍・徳川秀忠から拝領し、福山城に移設。3代勝貞が寄進し、元文3年(1738年)に固定式に改められた。国の重要文化財。
2月第2日曜に行われるお弓神事や、7月第2日曜前夜に行われるお手火神事(おてびしんじ)は、それぞれ市の無形民俗文化財に指定されている。
【ご利益】
海上安全、漁業繁栄、家内安全、病気平癒、学業成就、安産など(公式HP)
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