四道将軍オオビコがタケミカヅチを勧請して創建、坂上田村麻呂ゆかり
[住所]秋田県秋田市寺内児桜1-55-5
[電話]018-845-0333
古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社。式外社だが、国史見在社。近代社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝では、第10代崇神天皇の御世、四道将軍の一人である大彦命が蝦夷を平定するため、北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀った。
次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社として創建したとされている。
「齶田浦神」の名は『日本書紀』に見え、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と推定し、「齶田」を「秋田」の古名とする。
当社は『延喜式神名帳』には記載がないが、『日本三代実録』卷第十 貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」とあり、このうち「高泉神」について菅江真澄は当社のことと指摘。
高泉神である明確な証拠は他に存在しないが、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、越王、巨四王、高志王、腰王、小四王、小姓等という標記の神社が多数分布する。
このことから、越の国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視され、かなり古くから信仰された神だったと思われる。
坂上田村麻呂が延暦21年(802年)の蝦夷討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられている田村神社が境内に存在する。
同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)の跡地に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、安東氏の寄進も受けている。
江戸時代に入り、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、最終的には60石となった。秋田十二社の一社。
この頃より近隣住民からは、単なる北方鎮護の武神としてではなく、豊作や眼病に霊験灼かと広く崇敬されている。
なお、文政元年(1818年)刊行の曲亭馬琴の随筆「玄同放言」中にも、古四王社の挿絵がある。近年まで氏子は、肉、牛乳、卵を飲食しない風習を持っていた。
明治期、最初は郷社に指定されたが、明治6年(1873年)1月に一旦取り消され、同年10月に再指定された。
明治9年(1876年)2月24日に県社へ昇格。明治15年(1882年)には国幣小社に列せられ、以降県内で最も高い社格となった。
また、臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選」として掲載されている。
【ご利益】
北方鎮護の武神、豊作、眼病
【関連記事】
・近代社格の国幣小社とは? - 官幣小社5社に比して10倍の実に50社、一宮もいくつか含む
・国史見在社 - 『延喜式』に先行する六国史に記載のある神社で、式外社を指すことが多い
・神社の創建年代 - 神代から、神武・神功・継体、そして昭和期まで、主な神社を順に並べた
・日本神社100選とは? - 臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に掲載された神社
・『日本の神社 39号 (古四王神社・太平山三吉神社) [分冊百科]』 - 四道将軍やオオビコゆかり
・秋田県の別表神社 | 別表神社とは? - 神社本庁に属する神社の現代版官国幣社
・秋田県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、秋田県に鎮座している神社の一覧
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古四王神社(こしおうじんじゃ)は、秋田県秋田市にある神社。式外社だが、国史見在社。近代社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
社伝では、第10代崇神天皇の御世、四道将軍の一人である大彦命が蝦夷を平定するため、北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀った。
次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社として創建したとされている。
「齶田浦神」の名は『日本書紀』に見え、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と推定し、「齶田」を「秋田」の古名とする。
当社は『延喜式神名帳』には記載がないが、『日本三代実録』卷第十 貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」とあり、このうち「高泉神」について菅江真澄は当社のことと指摘。
高泉神である明確な証拠は他に存在しないが、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、越王、巨四王、高志王、腰王、小四王、小姓等という標記の神社が多数分布する。
このことから、越の国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視され、かなり古くから信仰された神だったと思われる。
坂上田村麻呂が延暦21年(802年)の蝦夷討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられている田村神社が境内に存在する。
同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)の跡地に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、安東氏の寄進も受けている。
江戸時代に入り、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、最終的には60石となった。秋田十二社の一社。
この頃より近隣住民からは、単なる北方鎮護の武神としてではなく、豊作や眼病に霊験灼かと広く崇敬されている。
なお、文政元年(1818年)刊行の曲亭馬琴の随筆「玄同放言」中にも、古四王社の挿絵がある。近年まで氏子は、肉、牛乳、卵を飲食しない風習を持っていた。
明治期、最初は郷社に指定されたが、明治6年(1873年)1月に一旦取り消され、同年10月に再指定された。
明治9年(1876年)2月24日に県社へ昇格。明治15年(1882年)には国幣小社に列せられ、以降県内で最も高い社格となった。
また、臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選」として掲載されている。
【ご利益】
北方鎮護の武神、豊作、眼病
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