勝運の神、現在も神事伝える、仲哀天皇が熊襲討伐で滞在した豊浦宮跡
[住所]山口県下関市長府宮の内1-18
[電話]083-245-1093

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市長府宮の内にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 長門国 豊浦郡「忌宮神社」に比定される式内社(小社)。長門国二宮で、近代社格では国幣小社、現在は神社本庁の別表神社

長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、第14代仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。

飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。魁傑將晃が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝する。

荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され、魁傑や大乃国康(現 芝田山)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されている。

御祭神は本殿の第一殿が仲哀天皇、第二殿が神功皇后、第三殿が応神天皇。仲哀天皇元年に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年に行宮・豊浦宮を建てた。

『日本三代実録』によれば、仲哀天皇4年に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮、つまり現在の当社が蚕種渡来の地とされる。

仲哀天皇8年に筑紫の香椎(現 香椎宮)で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのが創祀。

聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后、応神天皇を勧請・合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となった。

中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い、延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。

長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた。現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され、豊功神社として祀られている。

古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。例祭は12月15日。その前の12月7日夕刻から、極めて厳重な物忌みが行われる特殊神事「御斎神事」がある。

仲哀天皇7年、新羅の塵輪(じんりん)の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃したが、仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を討ち、熊襲を撃退した故事にならい、8月7日から13日まで数方庭祭(すほうていまつり)が行われる。

刀 無銘(伝則宗)折り紙付き、太刀 銘備州長船盛光 応永廿三年八月日、豊浦宮法楽和歌 (足利尊氏奉納)、忌宮神社文書 28巻3冊(372通)・忌宮神社境内絵図1幅(附:忌宮神社記録2巻12冊)が国の重要文化財に指定されている。

なお、当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選補遺」として、また、進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。

下関市長府惣社町に境外末社である守宮司神社があり、その境内に長門国総社の惣社宮がある。惣社宮は当社の境外摂社で、あるいは別宮ともされる。

飛地境内として満珠島干珠島がある。原生林が「満珠樹林・干珠樹林」として、国の天然記念物に指定されている。

【ご利益】
勝運、安産、家内円満、良縁(公式HP
忌宮神社 - 勝運の神、現在も神事伝える、仲哀天皇が熊襲討伐で滞在した豊浦宮跡
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