忌部山古墳群擁する忌部氏の式内名神大社、義経などゆかり
[住所]徳島県吉野川市山川町忌部山
[電話]-
忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県吉野川市山川町忌部山にある神社。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 麻殖郡「忌部神社」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)の論社。近代社格では村社、一時国幣中社。
『延喜式』神名帳の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかる。
主祭神は天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと、天日鷲命)。阿波忌部氏の祖神。他に、后神 言筥女命(いいらめのみこと)。主祭神の后神であろうが、他に見えない。
また、天太玉尊(忌部氏の祖神)、その后神である后神 比理能売命(ひりのめのみこと)。長白羽命(ながしらはのみこと)、由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)、衣織比女命(いおりひめのみこと)を祀る。
『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、天日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布(あらたえ)などを貢納するようになった。
また、当社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったことが推測されている。
社伝によれば、初代神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。
古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられ、朝廷からも尊崇された。
社記によると、中世には、文治元年(1185年)に河野通信が長光の太刀を奉納し、屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納した。
翌々文治3年田口成良が源頼朝の命で板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を割いて御供料として寄進した。
また、『山崎斎部神社之記』によると、応永年間(1394-1428年)に地震によって現在地へ崩落し、現在地にあった王子権現の傍らに小祠として祀られるようになったという。
以後、永禄3年(1560年)管領細川讃岐守が御供料田畑を安堵すると、三好長治もこれを襲ったが、長宗我部元親によって廃止され、兵乱による荒廃もあって衰退。
明治3年(1870年)村社に列したが、近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内社「忌部神社」が、国学者小杉榲邨の考証によって当社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。
しかし、式内社「忌部神社」を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、明治7年(1874年)に改めて当社を比定するという太政官布告が出された。
その後も激しい論争が続いたため、明治14年(1881年)に五所神社を式内社「忌部神社」に変更し、当社は村社に戻った。
ちなみに、五所神社比定に対し、今度は当社側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の忌部神社である。
五所神社はその境外摂社(御所神社)となっている。
近年は、忌部山古墳群の発見により、式内社「忌部神社」であったことが再確認される傾向にある。
山川町内に境外摂社として、岩戸神社と同所の建美神社、流の天村雲神社、淤騰山神社、白山比売神社、若宮神社、玖奴師神社がある。
【ご利益】
祭祀をつかさどる一族を祀っていることもあり、所願成就などか
【関連記事】
・名神大社とは? - 名神祭の対象となる神々、式内社の中でも特異、その細かな特徴は?
・『日本の神社全国版 (67) 2015年 5/26 号 [雑誌]』 - 徳島県の忌部神社と大麻比古神社
・徳島県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、徳島県に鎮座している神社の一覧
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忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県吉野川市山川町忌部山にある神社。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 麻殖郡「忌部神社」に比定される式内社(名神大社・月次新嘗)の論社。近代社格では村社、一時国幣中社。
『延喜式』神名帳の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかる。
主祭神は天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと、天日鷲命)。阿波忌部氏の祖神。他に、后神 言筥女命(いいらめのみこと)。主祭神の后神であろうが、他に見えない。
また、天太玉尊(忌部氏の祖神)、その后神である后神 比理能売命(ひりのめのみこと)。長白羽命(ながしらはのみこと)、由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)、衣織比女命(いおりひめのみこと)を祀る。
『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、天日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布(あらたえ)などを貢納するようになった。
また、当社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったことが推測されている。
社伝によれば、初代神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。
古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられ、朝廷からも尊崇された。
社記によると、中世には、文治元年(1185年)に河野通信が長光の太刀を奉納し、屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納した。
翌々文治3年田口成良が源頼朝の命で板東・板西・阿波・三好の4郡から田畑1000町を割いて御供料として寄進した。
また、『山崎斎部神社之記』によると、応永年間(1394-1428年)に地震によって現在地へ崩落し、現在地にあった王子権現の傍らに小祠として祀られるようになったという。
以後、永禄3年(1560年)管領細川讃岐守が御供料田畑を安堵すると、三好長治もこれを襲ったが、長宗我部元親によって廃止され、兵乱による荒廃もあって衰退。
明治3年(1870年)村社に列したが、近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内社「忌部神社」が、国学者小杉榲邨の考証によって当社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。
しかし、式内社「忌部神社」を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、明治7年(1874年)に改めて当社を比定するという太政官布告が出された。
その後も激しい論争が続いたため、明治14年(1881年)に五所神社を式内社「忌部神社」に変更し、当社は村社に戻った。
ちなみに、五所神社比定に対し、今度は当社側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の忌部神社である。
五所神社はその境外摂社(御所神社)となっている。
近年は、忌部山古墳群の発見により、式内社「忌部神社」であったことが再確認される傾向にある。
山川町内に境外摂社として、岩戸神社と同所の建美神社、流の天村雲神社、淤騰山神社、白山比売神社、若宮神社、玖奴師神社がある。
【ご利益】
祭祀をつかさどる一族を祀っていることもあり、所願成就などか
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