前方後円墳男根説
前方後円墳男根説(1)

前方後円墳については謎が多すぎます。世界最大の陵域面積を誇るものもあるほど、世界的に見ても巨大であり、特異な形状である築造物であるにもかかわらず、分からないことだらけ。

邪馬台国や卑弥呼などがあまりにも華々しすぎるからかもしれませんが、それらに劣らないどころか、より深い謎に満ちた存在、それが前方後円墳です。古代日本の神秘的な謎の一つであることは間違いありません。

そもそも、なんであの形なのか、すら、分かっていません。更なるそもそも論として、「前方後円墳」でいいのか、というのもあります。方形部が前方、円墳部が後方というのも確定しているわけではなく、江戸時代の学者が言い始めたことを今でも律儀に使っているだけのこと。あまりにも普及した言葉になっているので、今回もそのまま使いますが。

一応の定説は、後円部が主体で、ここに埋葬施設があり、前方部はもともと独立した、もっと小さな、後円部に付属する祭祀場だった。その前方部は後円部と架け橋でつながっていたが、いつしかその架け橋が巨大化、それに応じて前方部も巨大化、後円部と一体になった、と言います。

でもこれは、これが正しいとしても、形状の変遷を語っているだけで、「なぜ結局あの形?」というのには答えていません。しかも、前方後円墳の中には前方部に埋葬施設があるものも、実は珍しくありません。これも含めて、「自然にあの形になって、300年以上も日本全国に何千基も造られ続けた」という話もよく聞きますが、普通に考えてそんなはずはありません。

「日本全国に何千基も造られ続けた」からには

「日本全国に何千基も造られ続けた」からには当時の信仰、宗教が何らかの形で介在しており、そのパッションが原動力だったことは疑いありません。そしてそのパワーは、あまりにも膨大だったゆえに、普通に考えれば、1500年後の今でも、何らかの形で残存しているほどのもの、だったはずです。

よく持ち出されるのが、「天円地方」という古代中国の宇宙観。円は天を、地は方を示して、いわば円はあの世(死者)を、地は現世(生者)を示す、というもの。しかしこれ、そもそも現代との連続性が希薄で説得力がなく、中国では両者がドッキングしている例はありませんし、前方部に埋葬施設があるものの説明にはならないし、前方後円墳の“方”の部分、そもそも方形なのか? 撥型、楔形、三角形ではないのか、などという問題があります。

そうした先入観を抜きにして考えていた時、ふと、当サイトの上記の写真二枚(「奇祭」と「海浜型古墳」)がたまたま同時に掲載された瞬間を目撃して、「ああっ、前方後円墳て男根なんじゃないか」と単純にも思った次第です。あまりにも単純なのですが、そう考えるといろいろと氷解する問題も多くあるのも事実。

前方後円墳男根説。インターネットでさくっと調べてみると、そう見る向きもやはり少なくないようです。思うことは同じ。ただ、これでも前方後円墳に関してはかなり資料を読み込んできたつもりでしたが、その形状は男根をシンボライズした、という説は今まで見たことも聞いたこともありませんでした。

松本清張の前方後円墳性交モチーフ説

この方面でさらに調べていくと、かの松本清張が、「前方後円墳は、前方部が男根、後円部が女陰、両者がピストンして絡み合い、今まさに性交している様」と喝破しているとか。早速、その本、『遊古疑考』(1973年)を見てみました。前方後円墳性交モチーフ説とも言うべきものですが、主眼は前方後円墳に対する風水からのアプローチ。

考えてみれば、そうしたアプローチの研究も少ない。古代の墓である以上、風水が関係していないわけはありませんので。風水がいつ伝わったかがすぐ問題になりますが、こうしたものは人間の往来があれば自然と伝わるものです。一部の例外を除いて、資料に明記されることではないでしょう。

そうした意味で大変参考になった松本清張『遊古疑考』ですが、以降、この清張説が注目された、という形跡はありません。確かに推論に推論を重ねる形になってはいますので、学界で扱うには難しいのかもしれませんが。

しかし、それでも「男根そのもの」ではないわけです。前方後円墳と一口で言っても、後円部はよいとして、前方部には様々な形が存在します。それらをすべて性交モチーフと考えるには無理があります(清張もそれは否定しています)し、直感的に「男根」だ、と考えた方が通りが良いような気がします。

清張は300年以上続いた前方後円墳築造の時代には必ずその間に性格の変化があったはずと指摘しています。300年以上、同じ概念で築造されてきたとは考えづらい、というもの。一理あります。300年は確かに長い。

しかし、細かい点はさておき、300年以上ほぼ同じ形で作られ続けてきたという事実は重いと思います。そこには一貫した思想が一本の筋のように貫いているとしか思えません。

岡本健一氏の前方後円墳蓬莱壷説

最近の説として、前方後円墳はつぼ型、というものもあります。松本清張の前方後円墳性交モチーフ説が風水の影響下で生まれた、とするものとは違い、中国の神仙思想の影響を受けた、蓬莱山を模した墓が前方後円墳だ、というもの。つまり前方後円ではなく、全く天地をひっくり返してみる。そうすると、確かにつぼ型に見えてきます。

岡本健一氏の『蓬莱山と扶桑樹』がそれです。氏は早くからつぼ型説を唱えられてきたそうで、非常に長い期間、ほぼ学界からは無視されてきたとのこと。最近になって、同調者が増えてきたこと、また先に紹介した清張氏の論も紹介して、高く評価、画一的な前方後円墳論からの脱却、という趣旨のことを述べています。

仏教の伝来前、弥生時代から古墳時代にかけて、中国から神仙思想が伝わり、その中でも不老長寿と若返りが蓬莱山と扶桑樹によって象徴されており、前方後円墳は前者の蓬莱山、つまり不老長寿を願ったもの、という位置付けです。
前方後円墳は、不老長寿を保証する新宗教―いわば「蓬莱教」のヴィジュアルな造営物として、おそらく大和(奈良盆地東南部)の三輪山の麓から、燎原の火の如く全国に広まっていったらしい。奇妙な壷型古墳の造営という、大土木事業に狂奔した古墳時代の気分は、政治的なエネルギーもさることながら、むしろ、不老長寿を願う宗教的な情念の本流をおいてはつかみえない思われる。
と指摘しています。いわば前方後円墳蓬莱壷説。大変魅力的な学説で、参考になります。ただ、この説が正しいとしても、「新宗教」がほとんど疑い入れられずに、最大数十年程度の差で、日本各地に前方後円墳が林立するようになるのか、という疑問があります。新興宗教だからこその情熱、ということなのでしょうか。また、蓬莱山を必要とした人(対象)や、宗教的な情念の本流の正体がこの説のままでは、読み解けないことが多いのではないかという気がします。(続)