神宮125社、伊雑宮・所管社 “穂落伝承”真名鶴を祀る「穂落としさん」
[住所]三重県志摩市磯部町恵利原1273
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佐美長神社(さみながじんじゃ)は、三重県志摩市磯部町にある神社。川辺(かわなべ)と通称される地域に鎮座する。鎮座地は標高10メートル程度の丘の上。

伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、皇大神宮(内宮)別宮の伊雑宮の所管社の一社。伊雑宮所管社5社の第1位。伊勢神宮125社めぐりの中で磯部めぐりの一社である。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 志摩国 答志郡「同嶋坐神乎多乃御子神社/同島坐神乎多乃御子神社」に比定される式内社(小社)。

境内に同じく伊雑宮所管社である佐美長御前神社四社がある。地域住民は「穂落としさん」と呼び、稲の豊穣や病害虫駆除を祈願する参拝者が多い。

また、地主神として地鎮・方位除の信仰がある。江戸時代の医師である林玄仲の両親は、当社で子供を授かるように祈願している。

伊雑宮の外宮だと考える住民もいる。「当社の御神体は岩石であり、岩石に付着した海の藻と思しき物が潮の干満に合わせて上下し、常世不変の神であることを示す」という口伝がある。

志摩市立磯部小学校の校歌の歌い出しは「穂落宮の丘に建つ」であり、地域住民には親しみ深い神社。

社殿は神明造の板葺で、高欄と御階を有する。社殿は玉垣に囲まれている。

伊勢の神宮が所管する神社の中では珍しく東向きに建つため、式年遷宮のたびに社殿が南北に移動するという、伊勢の神宮の中では特異な社殿である。

東向きである理由は、東にある伊雑ノ浦を意識したという説がある。

伊勢神宮の摂社・末社・所管社には通例、賽銭箱は置かれていないが、当社には賽銭箱が置かれている。鳥居は三重県道61号磯部大王線沿いに立つ。

鳥居から社殿へ至る石段は36段。一段を一旬とし、三十六段で三十六旬すなわち一年(=大歳)を表すという説が『磯部郷土史』に記載されている。

『倭姫命世記』によると「伊雑宮と同所に祀る」とされるが、『安貞二年内宮遷宮記』では「坤(ひつじさる=南西)を向いて大歳神社を神拝する」旨が記されている。

伊雑宮とは800メートルほど離れている。この伊雑宮と当社を結ぶ道を「御幸道」(ごこうみち)と言い、かつて神が両社を往来したと伝えられる。

『伊勢両宮別宮摂末社』では内宮末社に列するが、近代以降は伊雑宮所管社となった。

明治4年(1871年)に現社名に改められるまで、下記のようなさまざまな社名が用いられていた。

・大歳宮(おおとしのみや)
・穂落宮(ほおとしのみや)
・飯井高宮(いいのたかみや)
・神織田御子神社(かむおたのみこのやしろ)

御祭神は大歳神(おおとしのかみ)。穂落伝承に登場する真名鶴が大歳神であるとされる。

内宮摂社の朝熊神社でも大歳神を祀る。内宮摂社の朽羅神社、内宮末社の葭原神社加努弥神社、内宮の所管社である屋乃波比伎神では、大歳神の子を御祭神として祀っている。

『倭姫命世記』に記されている当社創建にまつわる伝承が「穂落伝承」。

第11代垂仁天皇27年9月、倭姫命一行が志摩国を巡幸中、1羽の真名鶴がしきりに鳴いているところに遭遇した。

倭姫命は「ただごとならず」と言い、大幡主命と舎人紀麻良を派遣して様子を見に行かせた。

すると稲が豊かに実る田を発見、もう1羽の真名鶴は稲をくわえていた(「くわえて飛んできてその稲を落とした」とも)。

倭姫命は「物言わぬ鳥すら田を作り、天照大神に奉る」と感激し、伊佐波登美神に命じて抜穂(ぬいぼ)に抜かせ、天照大神に奉った。

その稲の生育していた田を「千田」(ちだ)と名付け、その傍らに神社を建立した。これが伊雑宮であり、真名鶴を「大歳神」として祀ったのが当社である、というもの。

その続きの鶴の話の伝承が元伊勢「佐佐牟江宮」とされる竹佐々夫江神社(三重県多気郡明和町)にある。

また、伊雑宮の重要無形民俗文化財「磯部の御神田」はこの伝承をもとに生まれたと信じられている。

【ご利益】
稲の豊穣、病害虫駆除、地鎮・方位除、子授かりなど

伊雑宮所管社
序列1 佐美長神社 (志摩市磯部町)
序列2-5 佐美長御前神社四社 (志摩市磯部町)

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