神宮125社、内宮・所管社 アマテラスの服“荒妙”を織る機殿神社
[住所]三重県松阪市井口中町
[電話]-
神麻績機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)は、三重県松阪市井口中町にある神社。伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、皇大神宮(内宮)の所管社の一社。内宮所管社30社の第18位。
神宮の御料地の一つ。伊勢神宮125社めぐりの中で斎宮めぐりの一社。神麻続機殿神社、神麻續機殿神社などとも記される。
境内には、内宮の所管社である神麻績機殿神社末社八所がある。御祭神は神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)。
もとは神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)と同じ場所に鎮座していたが、その後別れたと考えられる。両社を合わせて両機殿、総称して機殿神社と呼ぶ。
神服織機殿神社が下機殿(しもはたでん)あるいは下館 (しもだち)と呼ばれるのに対して、当社は上機殿(かみはたでん)あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。
機殿神社二社とも櫛田川下流右岸に位置し、地元では神服織機殿神社を下機殿(しもはたでん)あるいは下館 (しもだち)、当社を上機殿(かみはたでん)あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。
神御衣祭での位置関係から神服織機殿神社を右門、当社を左門と呼ぶ。両機殿の境内には本殿よりも大きい機殿(はたどの、機織をする作業場)があり、八尋殿(やひろどの)と呼ぶ。
『倭姫命世記』では第11代垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船度会国玉掇(ももふねわたらいたまひろう)伊蘇国に一時的に祀られた時、神服部社(はとりのやしろ)が建てられた。
内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ。棚機姫命)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた(神服織機殿神社の起源)。
倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた(当社の起源)。
天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。
『神祇令』『延喜式』『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実。
和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。
神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。
麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。
白河天皇の承暦3年(1079年)、当社は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大。
北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。
この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。
静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
織田信長と次男の織田信雄の計略により北畠家は北畠具教を最後に実質的に滅亡した。
豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢の神宮への参拝客が増え始め、両機殿へは山城国・紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。
江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。
ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月。
享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主藤堂高敏の寄進により両機殿が修理された。文化・文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮と、当社は麻績太神宮と称するようになった。
このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗畧記』に詳述され、寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。
また、明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。
現在は、毎年5月と10月の初旬、両機殿の八尋殿で内宮正宮と豊受大神宮(別宮)の荒祭宮での神御衣祭に供える御衣を奉織する。地元では「おんぞさん」と呼ばれる。
それに合わせて、奉織を始める前に清く美わしく奉織できるように祈る神御衣奉織始祭と終了後、奉織が無事に終わったことを感謝し幣帛を奉る神御衣奉織鎮謝祭が行われる。
当社の御祭神については、麻績部の祖先の天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと)とする伝承がある。当社では荒妙が男性によって奉織される。
かつては近辺の松阪市御麻生薗(みおぞの、神宮の麻園に由来する地名とされる)産の麻を使用していたが、現在は奈良県奈良市月ヶ瀬産の麻を使用している。
【ご利益】
織物業及び関連業種の神
皇大神宮(内宮)所管社
・序列1位 滝祭神 (伊勢市宇治)
・序列2位 興玉神 (伊勢市宇治)
・序列3位 宮比神 (伊勢市宇治)
・序列4位 屋乃波比伎神 (伊勢市宇治)
・序列5位 御酒殿神 (伊勢市宇治)
・序列6位 御稲御倉 (伊勢市宇治)
・序列7位 由貴御倉 (伊勢市宇治)
・序列8位 四至神 (伊勢市宇治)
・序列9位 神服織機殿神社 (松阪市大垣)
・序列10-17位 神服織機殿神社末社八所 (松阪市大垣)
・序列18位 神麻績機殿神社 (松阪市井口)
・序列19-26位 神麻績機殿神社末社八所 (松阪市井口)
・序列27位 御塩殿神社 (伊勢市二見町)
・序列28位 饗土橋姫神社 (伊勢市宇治)
・序列29位 大山祇神社 (伊勢市宇治)
・序列30位 子安神社 (伊勢市宇治)
【関連記事】
・伊勢の神宮とは? - 通称:伊勢神宮、正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢神宮125社めぐり - 整理すると73の社・境内、10の“めぐり”でコンプリート目指す
・田丸・斎宮めぐり - 伊勢神宮125社めぐり、三重県度会郡玉城町、松阪市など、全22社
・『倭姫命世記』(21) - ヤマトヒメ、再びアマテラスの神託を受け、天皇に報告・承認
・『倭姫命世記』(25) - ヤマトヒメついに引退表明、ヤマトタケルに草薙の剣を授ける
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
[電話]-
神麻績機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)は、三重県松阪市井口中町にある神社。伊勢の神宮(伊勢神宮)、神宮125社の一社で、皇大神宮(内宮)の所管社の一社。内宮所管社30社の第18位。
神宮の御料地の一つ。伊勢神宮125社めぐりの中で斎宮めぐりの一社。神麻続機殿神社、神麻續機殿神社などとも記される。
『延喜式神名帳』にある「麻績神社(伊勢国・多気郡)」に比定される式内社(小社)の論社。他の論社に、麻續神社がある。
境内には、内宮の所管社である神麻績機殿神社末社八所がある。御祭神は神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)。
もとは神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)と同じ場所に鎮座していたが、その後別れたと考えられる。両社を合わせて両機殿、総称して機殿神社と呼ぶ。
神服織機殿神社が下機殿(しもはたでん)あるいは下館 (しもだち)と呼ばれるのに対して、当社は上機殿(かみはたでん)あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。
機殿神社二社とも櫛田川下流右岸に位置し、地元では神服織機殿神社を下機殿(しもはたでん)あるいは下館 (しもだち)、当社を上機殿(かみはたでん)あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。
神御衣祭での位置関係から神服織機殿神社を右門、当社を左門と呼ぶ。両機殿の境内には本殿よりも大きい機殿(はたどの、機織をする作業場)があり、八尋殿(やひろどの)と呼ぶ。
『倭姫命世記』では第11代垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船度会国玉掇(ももふねわたらいたまひろう)伊蘇国に一時的に祀られた時、神服部社(はとりのやしろ)が建てられた。
内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ。棚機姫命)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた(神服織機殿神社の起源)。
倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた(当社の起源)。
天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。
『神祇令』『延喜式』『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実。
和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。
神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。
麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。
白河天皇の承暦3年(1079年)、当社は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大。
北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。
この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。
静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
織田信長と次男の織田信雄の計略により北畠家は北畠具教を最後に実質的に滅亡した。
豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢の神宮への参拝客が増え始め、両機殿へは山城国・紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。
江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。
ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月。
享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主藤堂高敏の寄進により両機殿が修理された。文化・文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮と、当社は麻績太神宮と称するようになった。
このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗畧記』に詳述され、寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。
また、明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。
現在は、毎年5月と10月の初旬、両機殿の八尋殿で内宮正宮と豊受大神宮(別宮)の荒祭宮での神御衣祭に供える御衣を奉織する。地元では「おんぞさん」と呼ばれる。
それに合わせて、奉織を始める前に清く美わしく奉織できるように祈る神御衣奉織始祭と終了後、奉織が無事に終わったことを感謝し幣帛を奉る神御衣奉織鎮謝祭が行われる。
当社の御祭神については、麻績部の祖先の天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと)とする伝承がある。当社では荒妙が男性によって奉織される。
かつては近辺の松阪市御麻生薗(みおぞの、神宮の麻園に由来する地名とされる)産の麻を使用していたが、現在は奈良県奈良市月ヶ瀬産の麻を使用している。
【ご利益】
織物業及び関連業種の神
皇大神宮(内宮)所管社
・序列1位 滝祭神 (伊勢市宇治)
・序列2位 興玉神 (伊勢市宇治)
・序列3位 宮比神 (伊勢市宇治)
・序列4位 屋乃波比伎神 (伊勢市宇治)
・序列5位 御酒殿神 (伊勢市宇治)
・序列6位 御稲御倉 (伊勢市宇治)
・序列7位 由貴御倉 (伊勢市宇治)
・序列8位 四至神 (伊勢市宇治)
・序列9位 神服織機殿神社 (松阪市大垣)
・序列10-17位 神服織機殿神社末社八所 (松阪市大垣)
・序列18位 神麻績機殿神社 (松阪市井口)
・序列19-26位 神麻績機殿神社末社八所 (松阪市井口)
・序列27位 御塩殿神社 (伊勢市二見町)
・序列28位 饗土橋姫神社 (伊勢市宇治)
・序列29位 大山祇神社 (伊勢市宇治)
・序列30位 子安神社 (伊勢市宇治)
【関連記事】
・伊勢の神宮とは? - 通称:伊勢神宮、正宮・外宮・摂末社・所管社全125社の一覧
・伊勢神宮125社めぐり - 整理すると73の社・境内、10の“めぐり”でコンプリート目指す
・田丸・斎宮めぐり - 伊勢神宮125社めぐり、三重県度会郡玉城町、松阪市など、全22社
・『倭姫命世記』(21) - ヤマトヒメ、再びアマテラスの神託を受け、天皇に報告・承認
・『倭姫命世記』(25) - ヤマトヒメついに引退表明、ヤマトタケルに草薙の剣を授ける
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
コメント